Twitter風にまとめた
新右脳数学教育論1

以下は2013/08/07に
Twitterで発言した内容をほぼそのまま
編集を加えずコピペしたものです。

私の主張を聞いてください。本来数学は、右脳と左脳をバランスよく使いながら考える学問です。ところが、現在の数学教育は左脳一辺倒の教育になってしまっています。 
 
カントは、純粋理性批判の中で「直観のない形式は空虚であり、形式のない内容は混沌である。」といっています。残念なことですが、現在の数学教育における数学は「直観のない形式」に陥っています。 
 
数式には必ず意味があります。数式は内容を指し示しています。ところが、左脳一辺倒の数学教育の中で育ってきた生徒たちは、肝心な意味や内容を把握しないで、機械的に数式を処理しているのみなのです。  
 
言語学の重要な概念に、シニフィアンとシニフィエがあります。シニフィアンは、指し示すもの(記号)であり、シニフィエは記号によって指し示されているもの(意味)です。 
 
言語学の重要なカテゴリーをつかって、私の問題意識を一言で語るなら、現在の数学教育は、シニフィエを捨てたシニフィアン一辺倒になってしまっているということです。
 
つまり、意味を捨てた記号一辺倒になっているということです 。 
 
本来の数学は、数式を操作しているとき、イメージがありありと浮かぶものでなければなりません。ですが、数式を公式によって機械的に処理しているとき、生徒の頭には何もイメージが生じていないのです。  
 
物理学科の教授であれば、イメージの伴わない数式操作を学生がしていたなら、叱りつけるところでしょう。  
 
物理の微分方程式が表している対象は、自然です。微分方程式を変形しているとき、それに伴って自然のどの部分が切り取られ、どの観点から自然を分析しているかをイメージできなければならないのです。 
 
物理の場合、数式操作をしているときイメージがありありと浮かぶかが問題になっています。ですが、数学教育ではイメージが軽視されています。 
 
経済学でも、数式を操作するとき、どのように経済が切り取られ、どのような観点から経済の運動がとらえられているか、明確に把握するのでなくてはなりません。  
 
数式の変形をしているとき、物理学者には自然がありありとイメージされ、経済学者には経済的対象がありありとイメージされています。 
 
本来は数学も同じでなければなりません。数式操作をしているときに、物理的対象や経済的対象が、ありありと浮かぶのでなければなりません。 
 
数学は決して、物理学や化学や経済学から切り離して考えることはできないのです。
 
数式は、物理的対象も化学的対象も経済的対象も包含します。数式は、確かにいろいろな対象を入れる器です。現在の数学教育は、器の面のみにスポットをあて、肝心の器に入っている内容を軽視しているのです。 
 
「形式は内容であり、内容は形式である。」とヘーゲルは大論理学で述べていますが、ヘーゲルの弁証法を持ち出さなくても、形式と内容を切り離すことができないことは自明なことです。 
 
基本的には、数学の出自は物理学であり、経済学なのです。 
 
内容は、物理的対象であったり、化学的対象であったり、経済学的対象であったりします。対象を分析するために、数式という形式は考え出されたのですから、それらの内容と最初から深く結びついているのです。 
 
明らかに内容と切り離すことは不合理なのに、なぜ切り離され形式一辺倒になったしまったのでしょうか。なぜ、数学はカントが言う空虚な形式になってしまったのでしょうか。もっとも大きな原因は、算数の数学化にあります。 
 
皆さんは、中学生になってはじめて数学を習ったときに、算数と数学ってどこが違うのと疑問を抱いたはずです。この疑問は、当然です。違いがまったくないのですから。小学校時代算数の名で学んだものは、数学だったのです。 
 
森有礼達の明治の官僚達が、教科を算数と数学に分けたことは大変当を得たことだったのです。そのまま、路線を変更しなければ数学教育が左脳一辺に陥ることはなかったのです。 
 
そして、ノーベル賞の受賞者がアメリカの1/10、イギリスの1/4、人口で1/10しかないスイスとほぼ同数という先進国としてはお恥ずかしい限りの状態にはなっていなかったでしょう。 
 
算数で直観すなわち右脳を鍛え、数学において論理すなわち左脳を協働させる・・・これを貫いたいたら、日本は一体どれだけ発展していたことでしょうか。残念ながら、明治の官僚達は誤った方向に舵を切ってしまいます。 
 
誤った方向に舵を切ってしった要因は、上からの資本主義化を急ぎすぎ、形だけの成果を果実であると思い込んだことにあります。 
 
誤った方向に舵を切ったとはいったいなんでしょうか。算数の数学化とななんでしょうか。 
 
それは、本来まったく必要としない公式を算数に密輸入してしまったことです。ここから、数学教育の不幸が始まったのです。 
 
公式を密輸入してしまったために、子供たちは考えない習慣を、右脳を使わない習慣を、すなわち左脳しか使わない習慣を身につけてしまったのです。 
 
左脳しか使わない児童にとって、文章題はさっぱり手のつけられない問題です。かけるのか、割るのか、足すのか、引くのかが皆目見当がつかないのです。 
 
文章題は、右脳すなわち直観を使わなければ解けません。実際に、脳科学の研究によれば、文章題が得意な児童は問題を考えるときに右脳をしきりに使っています。 
 
文章題が苦手な児童、左脳しか使わない児童にとって公式は大変都合の良いものでした。意味がわからなくても、公式に当てはめれば答えを出すことができるのですから。 
 
でも公式で答えを出すときに、一番重要なものが抜け落ちてしまいます。そうです。意味です。内容です。言語学の言葉を使えば、シニフィエです。 
 
言葉には意味があります。猫なら、それはニャーと鳴く動物です。言葉には指し示すものがあります。猫という記号は、ニャーと鳴く動物を指し示しています。 
 
数式もまったく同じです。数式には意味があります。数式が指し示すものがあるのです。言語学の言葉でいれば、シニフィエがあるのです。言葉は意味を伝えるためにあります。記号を伝えるためにあるのではありません。 
 
ところが、公式を使って解いている児童には記号しかありません。記号が指し示しているものがないのです。イメージや意味が抜け落ちてしまっているのです。 
 
文章題で、一番重要なことは意味をつかむことです。ところが、大人たちは、意味なんか考えなくて良いから公式にあてはめて答えを出しなさいと要求するのです。 
 
意味を考えることが苦手な児童は、大々歓迎です。意味はわからないなくても、答えを出せる悪しきツール=公式があるのですから。 
 
意味を考えなくて済んでしまうのですから。左脳しか使っていない児童は大喜びです 
 
電卓は、仕組みがわからなくてもボタンの押し方さえ知っていれば答えを出すことができます。公式もまったく同じです。原理や仕組みを理解してないくても、公式に当てはめれば答えが出てしまうのですから。 
 
わかることをできることに矮小化しています。できるも確かに大切ですが、まず原理を理解することが必要です。意味の把握があって、できるなら良いのですが、原理の把握なしにできることが一人歩きをしています。 
 
どうしてかけるのか、どうして割るのかをちゃんとつかむことが大切なのに、ここを疎かにしています。文章題が苦手な児童にとって、どうしてやなぜは苦痛の問いです。ですが、産みの苦しみなしに本当の理解あり得ません。 
 
考えることが苦手な児童に迎合して、公式を与えてしまっている、そのために児童は左脳しか使わなくなってしまうのです。 
 
原理や意味の把握なしに、応用は不可能です。ペーパーテストしか解けない児童・生徒を、現在の算数・数学教育は大量に生産しています。 
 
一昔前に流行った陰山メソッドは、左脳一辺倒を極限まで持って行った最も悪しき教育方法です。 


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