100ますの大誤算(陰山メソッド批判)

   右脳算数・数学=直観算数・数学の提唱

はじめに

 あなたが今この本をもっていることが、陰山メソッドに対して半信半疑であり、不安を抱いていることを証明している。誰しも我が子の成績が伸びていくことを願っている。そしてその方法がないかと、模索している。現在マスコミや教育界で非常に注目されている教育方法が、陰山メソッドなので保護者の方はこれに飛びつかれたに違いない。「本当の学力をつける本」を購入し、一面では大変すばらしいと感じながら、本当に100ます計算などだけで力がつくのだろうか、と疑問を抱いているはずである。疑問を抱くのは当然である。意味など考えず、計算さえやっていれば数学の力はつく、という考え方は昔からあって、お父さん自身やお母さん自身がそれを実践したり、子供に実践させたりしたが計算力を除けば、算数や数学の力は少しもつかなかったという経験をお持ちの方が多いからである。(塾教師をやっていた時代、塾教師仲間では、公文式をやっていた児童生徒は伸びない、というのが共通した見解であった。公文式をやっている生徒はすぐに分かった。計算だけは抜群に強いのに、文章題になると突然できなくなってしまうからだ。)

 大脳生理学は、右脳と左脳では役割が別であることを明らかにしている。左脳は、分析脳=逐次処理脳であり、論理・言語・概念・計算などを分担しているのに対して、右脳は総合脳=並列処理脳で、直観・イメージ・空間認識・パターン認識などを担当している。そして、大脳生理学は、創造や理解・学習における右脳の重要性を証明した。創造は、分析脳である左脳では不可能で、右脳のひらめきや総合する力を絶対不可欠としている。また、理解の過程と創造の過程が、共通な一面をもつことを大脳生理学や認知科学(認知心理学)は証明しつつある。記憶力においても、右脳は左脳の10万倍の能力を持っていること示している。

 ところが現在の教育は、残念ながら左脳一辺倒の教育になってしまっている。イメージや直観を軽視し、論理中心の指導になってしまっているのである。数学においては、公式を暗記させ、それの機械的な使用に明け暮れている。英語においては、文法によって文を解釈させたり、英文を作らせることに重点がおかれている。国語の古典・漢文指導も、同じく文法中心である。その結果、実践の場=生活の場では何の役にも立たない学問になっている。10年も英語を勉強しながら、外国人の前ではもじもじしてしまい、コミュニケーションがまったくとれないのである。国立大学の工学部の学生が、45分で100円の駐車料金と60分で150円の駐車料金ではどちらがやすいのか判断できないのである。イメージや直観が軽視されているのだから実践に役に立たないのは、当然というしかない。現在の教育で育てられた者は、ペーパー試験以外何も解けないのである。

 この本の任務の一つは、陰山メソッドを批判することである。だが、誤解されては困ることは、陰山実践を全面的に否定しているのではないということである。

教育者が日々行っていることを本にまとめる場合、まとめた内容と実践の間には必ずずれが伴うものなのである。なぜなら、実践は、意識的(自覚的)に行っている事柄だけでなく、自分が無意識に行ったり、本人がたいして重要でないと思っているが実際には重要な役割を担っている事柄などからなる総体=全体であるからである。どんなに実践者が有能な人であってとしても、実践の総括(実践をまとめた内容)と実践の間のずれは避けることができないものなのである。そして、ときにはそのずれが決定的といえるほど重要な場合もあるのである。

陰山実践は、総合的に見れば大変合理的ですばらしい実践なのである。右脳と左脳をうまく協働させている。陰山氏は、生活に根付くことを非常に重要視している。しかしながら、総括においてと彼の意識において、危険な側面を持っている、いやもっとはっきりいってしまえば、創造や学習にとって桎梏(しっこく、手かせ・足かせと言う意味)になってしまう側面を持っている、ということも否定できない。危険な側面を認識しないで、陰山メソッドを実践するなら、それは一人歩きし、より危険なものになって行くであろう。現実に家庭や小学校などで実践されているものは、100ます計算や反復練習の部分だけであろう。もし100ます計算や反復学習だけに焦点が絞られ、実践されて行くならば、頭の空洞化を招くことになるだろう。なぜなら、これこそ先ほど問題にした、左脳一辺倒の教育の極限といえるものだからである。陰山氏が自分の実践が成功している根拠として、多数の卒業生が有名大学に合格していることをあげているが、所詮ペーパーテストの結果にすぎないことは忘れてはならないことである。 

 近代は学問の専門化が進んできたが、その中で最後の万能の天才といわれた数学者アンリ・ポアンカレは、創造に果たす直観の重要性を強調している。同じフランスで、少し後の時代の数学者アダマールは、数学者の創造のタイプを考察し、論理的なタイプの数学者といえど、はじめには直観があるし、アダマールのような直観的なタイプにおいては、一見論理の科学であるように見える整数論の証明でさえ、イメージの果たす役割が非常に大きいとしている。相対性理論によって近代物理学に革命を起こしたアインシュタインも心像(イメージ)が、自分の思考にとって重要な役割を担っていると、言っている。多数の数学者が、論証において論理を追えたとしても、全体を俯瞰する(ふかんする、高いところから全体を見渡すという意味)直観を伴わない限り、理解したとは思えないと語っている。数学者にとっては、論理的理解は理解の第一段階にすぎないのであり、本質的理解は直観的理解なのである。

 児童・生徒の理解も形式的な理解から、内容的な理解へと昇華させなければならない。計算という形式的な操作を行っているとき、頭脳にはありありとしたイメージや直観が伴っているのでなければならない。100ます計算の最大の問題点は、計算する際にイメージが伴っていないことである。

 ブラジルのレシーファという街の路上でキャンディを売っている6才から15才の少年たちは、学校にほとんど行っていないのにもかかわらず、日本の小学5,6年生たちが苦手とする、割合の計算を瞬時に行ってしまうという。彼らの計算には、お札やキャンディなどの具体物が介在している。つまり直観を媒介させて、複雑な計算を行っているのである。彼らには生活がかかっており、計算を間違えることは死活問題である。生活感情はまさに右脳の能力である。計算の仕方だけを学んでいる日本の小学生と、生活に根ざしているキャンディ売りの子供たちのどちらが強いであろうか。

 我々の知を実践知に変えていくためには、直観やイメージを大事にする教育がされなければならない。本書において、ダイナミックに躍動する生き生きとした数学を提唱したい、と思う。それは右脳算数・数学=直観算数・数学である。





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