ルソー社会契約論研究サンプル1
近々、私は私が運営してる哲学・社会科学サイトでルソーの社会契約論の解説のというページを作る予定です。その一部を紹介しておきます。もし、興味があったら覗いてみてください。
社会契約論原文(岩波文庫P63)
立法者は、あらゆる点で国家において異常の人である。彼はその天才によって異常でなければならないが、その職務によってもやはりそうなのである。それは、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国を作るこの職務は、その憲法には含まれない。それは、人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。なぜなら、もし人々を支配するものが、法を支配してはならないなら、法を支配するものは、やはり人々を支配してはならないのだから。もしそうでなければ、彼の法は彼の情念のしもべとなって、多くの場合彼の不正を永続化させるだけにすぎないだろう。そして、彼は、彼の特殊な見解が彼の作品の神聖さをそこねることを、決して避けえないだろう。
この段落は、私が社会契約論の中で一番難解であると感じた部分です。この段落は、いろいろに解釈できます。「法を支配するもの」を立法者とも解釈できるし、自然法(則)とも解釈できます。自然法(則)とは、キリスト教圏では、神の摂理と考えられるものです。自然や人間は、神が創造して、自然や人間の運行法則も神が作ったと考えるのが、キリスト教の考え方です。
また、「共和国を作るこの職務」も立法者が法を作る職務とも解釈できますし、神の職務とも読めるかもしれません。人間の国とは共通点がないといっているのですから、神の職務であるとも解釈したとしても、それほど強引ともいえないでしょう。
「法を支配するもの」を自然法、「共和国を作るこの職務」を神の職務として、引用文を書き直してみましょう。
神は、あらゆる点で国家において国民を超越している。神はその天才によって国民を超越していなければならないが、その職務によってもやはり国民を超越している。神が立法する行為は、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国を作るこの神の職務は、その憲法には含まれない。神の仕事は、人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。なぜなら、自然法が、法を支配してはならないなら、自然法は、やはり人々を支配してはならないのだから。人間を超越する神ではなく、個別的な利害にとらわれている人間が立法するならば、人間が考えた法は人間の情念のしもべとなって、多くの場合立法者の不正を永続化させるだけにすぎないだろう。そして、立法者(人間)は、立法者の特殊な見解が立法者の作品の神聖さをそこねることを、決して避けえないだろう。
「共和国を作るこの職務」を神の職務とする解釈は、一応筋が通っていますが、「法を支配するもの」を自然法と読むとおかしな事になります。「自然法が、法を支配してはならないなら、自然法は、やはり人々を支配してはならないのだから。」・・・自然法は神の摂理とも言うべき、絶対的な掟です。その掟に従って、法を作るべきですし、人々も自然法には従わなければなりません。では、「共和国を作るこの職務」を立法者が法を作る職務と読み直すとどうでしょうか。
立法者は、あらゆる点で国家において国民を超越している。立法者はその天才によって国民を超越していなければならないが、その職務によってもやはり国民を超越している。立法者が立法する行為は、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国を作るこの立法者の職務は、その憲法には含まれない。立法者の仕事は、人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。なぜなら、立法者が、法を支配してはならないなら、立法者は、やはり人々を支配してはならないのだから。立法者が立法するならば、立法者が考えた法は人間の情念のしもべとなって、多くの場合立法者の不正を永続化させるだけにすぎないだろう。そして、立法者は、立法者の特殊な見解が立法者の作品の神聖さをそこねることを、決して避けえないだろう。
この文章も全く意味のわからない文です。なぜ、立法者が国民を超越するのでしょうか。立法者はただの人間ですから、常に自己の利害の中でしかもの考えることはできないはずです。他の国民に従わせるために、立法者は神のように振る舞わなければければならないと言うことでしょうか。立法者が法を作る行為は、憲法ではないというのは理解できます。立法者は、憲法に基づいて法を制定するのですから。法自体は明らかに憲法ではありません。また、立法を行う機関は立法府ですから、立法を行う機関は行政機関ではないという主張も分かります。しかし、「なぜなら、立法者が、法を支配してはならないなら、立法者は、やはり人々を支配してはならないのだから。」は絶望的にわからない文章です。
さて、このわけのわからないパラグラフをいよいよ解明してみましょう。
解説
哲学には、古代から議論され未だに決着のついていない問題がある。実念論と唯名論の論争である。家には、木造の家も、鉄筋コンクリートの家も、レンガ造りの家もあるし、1階建ても家も2階建てや3階建ての家もある。しかし、人が住むという共通点をもっている。個々の家に対して、共通する性質を考えて、「家一般」があると考える。個別を超越した普遍といってもよい。この普遍が存在するという立場が、実念論であり、普遍という実体はなく、だだの名前にすぎないと考えるのが唯名論である。三角形のなどのイデアを考えるプラトンは、実念論の系譜と考えられるし、言葉によって世界が分けられると考えるソシュールなどの構造言語学は、唯名論を支持していると考えてもよいだろう。実存哲学であると誤読されてきたハイデッカーの「存在と時間」も、存在の意味を問うことによって、普遍とは何かを問題にしている。ハイデッカーの言う存在とは、個々の存在者を超えた普遍的な概念なのである。ヘーゲルが精神現象学や論理学で論じてきた問題の中心は、普遍と個別の関係であり、客観と主観の織りなす運動を解明する弁証法こそが、ヘーゲルの実念論と唯名論論争に対する回答なのである。
政治学の世界でも普遍と個別の関係が問われてきた。「法の精神」を著したモンテスキューは、立法は固有名詞をもたないものを対象にするから普遍に対応し、行政や司法は何々地方の道路建設や誰々の裁判というように、固有名詞をもつものを対象にしているから、個別に関わると考えている。P58の段落で解説した通りに、ルソーもモンテスキューと同じ立場をとっている。一般意志は、立法にかかるが、固有名詞をもったものを対象とする行政や司法には、関わらないとする立場である。行政を動かす意志を、団体意志と呼びルソーは一般意志と区別している。
さて、ルソーは社会契約論の冒頭で「わたしは、人間をあるがままのものとして、また、法律をありうるべきものとして、取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な政治上の法則はありうるかどうか、調べてみたい」と述べている。この言葉を額面通りに受け取るならば、現実は別にして絶対に誤ることのない一般意志が成立していることを仮定して、論を進めていることになる。しかし、ルソーは一方で一般意志の成立条件は、「人民が十分に情報をもって審議する」ことであるとしている。言論の自由などの法整備がされておらず、メディアも今のようには普及していない時代に、情報が十分に開示されていたとは考えられなし、職業も固定され、居住の自由もなかったこの時代の国民に、充分な議論がなされていたとはとうてい考えられない。目指すべき社会を描いていたにしても、絵に描いた餅になってしまう可能性が高い。ならば、ルソーは一般意志が成立している状態を仮定して社会契約論を展開していただけではなく、いかにしたら一般意志が成立できるかというプロセスも問題にしていたのではないだろうか(その根拠は、ルソーが至るところで、「結果が原因」になるという言葉を使っているからである。この言葉はまさにヘーゲルの弁証法である。また、「成熟」という言葉を至るところで使っていること証左ではないだろか。)。ヘーゲルの絶対精神が、世界史の中で段階的に実現していくように、一般意志も歴史の過程を通して徐々に実現していくものなのではないだろうか。残念ながら、日本を含めた現実の今の世界は、未だに一般意志を実現しているとは、考えなれない。極右勢力が台頭して、トランプなどのポピュリズムが蔓延しているのであるから。
しかし、段階的に一般意志が成立していくにしても、はじめの一歩がなければならない。法を作るものは、個別の利害を超えた一般意志である。だが、歴史の最初に一般意志は成立していない。であるとしたら誰がどの市民から見ても公平な法を作るのだろうか。ルソーはホッブスとともに王権神授説を否定している。政治を神から説明することに対して、批判的であったと考えるべきであろう。したがって、歴史の最初において法制定する立法者は、人間であると考えなければならない。法は法である以上、すべての市民が従わなければならない。法には権威がなければならない。そこで、歴史の最初の段階においては、神のような権威をもった人々を存在させ、その人たちに立法させたということではないだろうか。もちろん、神のような人の存在は、自由と平等を求めるルソーにとって本意ではない。であるが、不十分ながら法を整備していけば、市民に徐々に情報が知られるようになるし、言論の自由が保障されれば、自由に討議できるようになっていく。市民の成長あるいは成熟によって、個別意志は歴史の進展ともに、一般意志に近づいていく・・・とルソーは考えていたのではないだろうか。民主主義が充分に根付いていけば、神的な権威をもった人の存在は不要になり、歴史の舞台から去って行くとすれば、この難解な段落は説明ができるのではないだろうか。
超超訳
法を作る人は、国家の中で最も優れた人である。法を作る人は、天才的な才能をもつばかりでなく、仕事をする責任感も随一である。立法府は、行政機関ではない。また、立法者が立法するという行為は主権の行使ではない。なぜなら、主権の行使とは、一般意志のみしか行えない行為であるのに、歴史の最初において一般意志は成立しておらず、ある人々が仮に立法権を委ねられて、法を作ったにすぎないからである。共和国の法は、憲法に基づいて作られるので、法自体は憲法ではない。仮に立法権を委ねられた立法者が法を作るという仕事は、あたかも神的な権威をもった営みでなければならない。臣民(市民)が従わなければならない法を作るのであるから。しかし、仮に立法権を委ねられた者は、最初に立法する以外は立法には携わってはならない。また、立法者は市民を支配してはならない。最初の立法行為のみを委ねられたのであるからである。最初の立法のみを頼まれた者が、それ以降も法を作り続けるならば、法は彼の個別の利害に支配された情念の奴隷となり、法の公平性を根本から損ねるであろし、一般意志成立への道のりも遠ざかるであろう。
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