第二論文 

右脳数学(直観数学)構想 を拝読して  2

 

1. 時間 と 距離 と 速さ(等速運動) の 三位一体構造

と こどもの直観 

 第二論文 『 冒頭部分 』および  『 第三章 第一節  速さ 』 を読み、人間、特に子供にとっては、 時間より 等速運動のほうが より原初的認識、わかりやすく、客観的であり、かつ 人によりぶれが少ないもの なのではないか 客観的物理的時間は、主観的直観をいったん修正して理解されるもの、等速運動するものから間接的に推測されている二次的な観念なのではないか(この間接的に規定された時間を常時表示するもの=時計 が大衆化したために、あたかも具体的な時間が一次的に直観されるものと認識されるようになった)  と 考えたことについて

 

 

 

 意味の消失した公式に頼るのではなく、直感的な把握が必要である、との主張は、中身が濃くまた おそろしく 深い ものと つながっているのではないか、と思ったのは 「第一論文を拝読して1 」を書いてからのことである。

 

@ 速さに ついて

 

わたしも中学1年の子供(当時)が、塾で はやさ、じかん、きょり の最初の字をとった「はじき」、という名前のニコニコマーク( 第二論文冒頭部分 )を習ってきて、面白いと思い、考えてみたが、けっきょく速さの定義を押さえれば、いいということ(第二論文の結論と同じ)を確認した。 

その後第二論文を読み、やはりニコニコマークは役に立たないのだな、と納得したが、さらに 速さ=距離÷時間 の式を何度か想起しているうちに、これはカントの空間と時間の割合ではないか、と気づき、人間の認識の基本に関わるのではないか、と思い始めた。このときは、時間と空間が基本的直観で、速さはその比として、あとから認識されるもの、時空の結節点 時空のなかで析出されてくる結晶のようなものであり、その点で二次的な概念ではないか、とまず考えた。

 

次によくよく考えてみると、速さの定義の中に時間と距離の二つの単位が含まれている、ゆえに純粋な抽象的概念ではなく、また単なる比ではない、ということに 気づいた。速さそのものが距離と時間の概念とさらにその単位を含む概念である。時速何キロという場合、1時間という単位と、キロメートルという単位を両方示さなければ、速さを表すことができない。

 

 

つまり、速さは、単位のない量( 単なる二倍、三倍、半分というような 第二論文でいう「割合」)ではない。

 

「実際の量は、単位がある量であり、割合は単位のない量である。」(第二論文第三章第二節例1 の説明部分)

 

 時速60キロメートルは、単位のある量であり、具体的なあるものである。だから、分速1キロと表現しても、(60と1という別な数字が)全く同一の速さを表している。単位のない量ではないからである。 

ある速さを直観する、それを数字で表現するといろいろな単位で、いろいろな表現ができる。秒速でもよい、一週間に、でもよい、一年で でもよい。表現の都合により使い分けているに過ぎない。いかなる表現をしようと、厳然と存在し、直観される速さ。速さとは具体的なものから抽象化された割合ではない。 

 

   第二論文 第三章 冒頭部分

    「だれが遅刻しそうになっているときに、時間は道のり÷速さだから時間を短縮するためには、歩みの速度をあげなければならない、と考えるだろうか。このままでは遅刻だと思えば、反射的に走り出すであろう。論理など介在する余地なく直観的に結論を出すのである。」

 

 次に距離と時間を考察する。

 

A 距離、空間的延長、長さ、広さ、深さについて(以下、これらを単に「長さ」「距離」という言葉で代表させる)

 

 距離、長さ は、目で見ることができ、認識しやすく、またものさしという道具も安価であり、小学生でも手に入る。定規を計るものに当てさえすれば、長さを容易に測定できる。尺度が、時計と比べれば安価であり、日常的であり、常時利用可能であり、確認可能である。

 また長さ、高さは、同時にたくさんのものを視野に入れて比較できる。東京タワーはだれが見ても、周りのビルよりも高い。

 

注 認識と見ることとは密接であり、あらゆる感覚は視覚をその中心として統合されている、と考えられ、また語源的にもイデアとは見るということである。わかるとは、みえる、視野が開ける、目からうろこが落ちる、というように 視覚との関連が決定的に深い。その立体的、構造的ひろがりのある認識と明晰判明性との関係性。ビジュアルなもののわかりやすさ。一見して明らか、百聞は一見にしかず・・・・・  見ることと空間上の距離、位置関係、不透明か透明か、ぼけているか明確か、あいまい、ずれ、かげろうのような揺らぎ、霧がかかっている、澄み切った空のような・・・ 

その点で、距離と 移動する物体の運動の速さは目で見ることができる点で、明晰であり、時間は見えない点で明晰とは言いにくいのではないかと考えられる。

 

 

B     時間について

 

 では時間はどうか。人間にとって、正確な時計をだれでも複数持てるようになったのは、それほど昔のことではなく、正確な時間は身近なことではなかった。

 

時計がない場合には、 時間、距離、速さの三者の中で、時間は最もあいまいで、人により 感じられる時間の長さには、ばらつきが大きく、客観的時間を直観的に把握できない。

時間は内面的印象で、比較するものがほかにない。せいぜい過去の記憶や、ボクサーが体に覚えこませた3分間というようなものでしかない。距離や速さは同時に他のものと一緒に観察することが可能であり、だれがみても、あのビルは周りのビルより高い、あの自動車は、周りの車より速く走っているからスピード違反だ、などと認識可能である。

時間の比較は自分の内面の中での比較であるが、距離や速さは、外に見えるものによる比較が可能である。距離も速さも見えるもの、外部に感じられるものという点で共通性がある。速さでは、自動車なら振動やエンジン音、窓を開けているときのかぜの強さ、などでも客観的に他人の共通に体感できる。

 

そもそも時計が少し前まで大変高価なものであった。戦前では貴重品として、裕福な家の応接間や 大きな玄関 などに鎮座していた(grandfather’s clock)。時代をさかのぼれば 時計は 権威の象徴であり 支配力 の象徴だった。お寺の鐘の音には、かつては特別な意味があったはずである。

 

さて、時間のあいまい性の背景に、そもそも時間には二側面がある点を挙げることができる。 主観的な感じとしての時間の長さと客観的な時間である。しばしば楽しいときには時間は短く過ぎ、いやなときにはなかなか時間が過ぎない。時計という客観的時間表示装置が身近になかった時代には、時間は主観的要素がいまより強かったはずである。

 

 

 

 

 

 

アリストテレスの系譜に属する時間

外部の運動、変化によりわかる客観的時間

物理的時間

 

近代物理学ではこの時間を基準にあらゆる粒子の運動を記述する

同じ速さで進むと考えられている

社会的時間

 

社会での協働に不可欠

 

近代以後生活を律するものとなる。(遅刻に対する否定的な評価)

アウグスチヌスの系譜に属する時間

主観的内面的時間

心理的時間

状況により速く進んだり遅くなったりする時間

個別的で状況依存的で個性的な時間 記憶に残る時間

 

 

注 カントは、この客観的時間も、彼の考える空間と同様に、人間の内面に根拠を持つ形式( 認識の枠組み )と捉えた。

 

 ではわたしたちは、普遍的な時間をどう主観で認識するのだろうか。わたしたちは客観的な時間を正しいと考え、主観的な時間感覚を修正する。「ああ、もう2時間もたったのか」、というように。

 

 物理の歴史を記述した簡易な本にガリレオが振り子の周期=一回揺れるのに要する時間 が同じであることに気づいたのは、自分の脈拍 を使った、とかいてあり、示唆的である、と考えた。わたしたちは、規則的な何か、等速運動する何か、で時間を計っているのである。

 

 ここになにかうまく言えないが、重要な点があるとわたしは直観している。つまり 脈拍で振りこの周期を一定であると発見したと考えて、今度は振り子を基準として、脈拍の変化を逆に測る。天体の運動も等速運動すると仮定して、いろいろ計測して計算していく。

たとえば地球の自転の投影である、北極星を中心とする星の運行の角速度を一定と考える。星の南中時で時間を計るというのは近年までやっていたらしい。が、最近ではさらに水晶などで、正確な時間を計測できるようになったため、地球の自転の速度の変化を計測できるようになった、という。

 

つまり時間を計る基準となるなんらかの等速運動するものがあるのだが、その基準とする運動体が別なものへと移っていくのである(脈拍 → 振り子  → 地球の自転  → クォーツ  → セシウム  → 水素メーザー時計 )。よく考えると、基準となるものが等速であると仮定して、矛盾がでないので等速であると暫定的に決め付けている、という性格をぬぐえないのではないか、と思えるのである(水素メーザー時計でも1日に十億分の一秒の狂いがでる、という。原理的に物理的な運動を基礎に時計を作る場合、狂いはゼロにはなりえない。とすると永久に時間の基準となる現実的対応物は変化しうることになる)。

 

  また、現実に正確な時間を刻むものは存在し得ない、ということは正確な時間は人間の頭の中にのみある、ということになる。西欧人が、神の作った世界は完全で数学的であると信じて探求した結果、本当にそのような物理的世界が現れた。つまりまず世界に関する確信、信念があり、それに実験結果が符合していく、という過程が、物理などの発展のなかにあった(逆に これまでの理論で説明できない新しい実験結果を整合的に説明できる量子論のような新たな理論モデルを作り上げていく、というプロセスもあるが)と見ることができると思うが、それとおなじことが時間についても言えるのではないか。(まず等速で進む時間が存在するとの確信があり、等速で進む運動体を見つけてきて 時計とする 。 ここに関係の循環がある。相互が相手を規定している循環論法的関係  相互依存関係 )

   

注 近代物理学では運動を記述するときに 時間が登場するが、時間そのものの考察は括弧にいれられている(アインシュタイン以降は別 )。

 

 

物体は力が加わらなければ、等速度運動を続ける(ニュートンの第一法則*)、という仮定を前提に、逆に時間が認識されているのではないか。つまり物理学の時間認識には、等速運動が決定的重要性を持っている、といえるのではないか。またそれは時間の一様性、時間自体が等速運動をする、均一に流れるとの認識につながる。

 

 * 「法則1 全て物体は、その静止の状態を、あるいは直線上の一様な運動の状態を、外力によってその状態を変えられない限り、そのまま続ける」(『自然哲学の数学的諸原理』プリンキピア)

 

わたしたちを取り巻くさまざまなものの周期の一定性=ある区切りをもった等速運動(昼夜の交代、季節の移り変わり)は、自然であり、本来のあり方である。それゆえ人間の精神を正常に保っている重要なもの、といえまいか。

 

  

 

 

  

    注1. 空間を認識するのは主に視覚という一つの感覚にすぎない(場合によっては音の反響、冷気、かぜの触覚もあるが)が、時間を認識するのは、第六感さえもふくむ、人間のもつ全ての感覚である。そのなかには、個人の年齢により変化する傷の治り方の速さ、外的刺激への反応速度、筋肉の敏捷性、関節の柔軟性という生物学的体内感覚が含まれる。あるいは過去の記憶と現在との変化により時間を認識するが、過去の記憶は個人的であらざるを得ない。それゆえ、距離に比べて、本性からして時間は常に主観的個人的要素を含まざるをえない。

 

   注2. 主観と客観がずれた場合、距離の場合は 錯覚だった、だまされていた というように 主観の間違いを 架空の認識、虚偽の認識と 表現することが多い。それに対して、時間の主観的印象のずれ については 錯覚といわない。逆にそちらに 真実の時間、本当の時間がながれていた、というように感じ、また 表現し、聞いたほうも それに 共感する。この違いに 時間の 自明でない性格が 示唆されていまいか。 つまり 距離については 正しい距離が 存在すると 認識されており、時間については 正しい時間が 存在するとは 距離ほどはいえない、ということである。あるいは、時間については主観的時間認識も客観的時間もいずれも同じ程度に正しい、状況によっては主観的時間認識のほうが、よりその時間を生きた人間には真実である、と人々は理解する。

 

 

 

 

 等速運動するものが進む距離を等距離に区切ることで、そこに経過した時間を等しい時間と認識する。距離から時間をイメージする。時間の長さや連続性、永遠性、無限など を距離のそれら で類推する。距離の根源性、時間の二次的性格。等速運動の人間や自然にとっての一次性、根源性。心臓や運動が一定であることこそが、自然であり正常であるということ。そこからの時間の登場?

 

 

 「人間にとって等速運動は 自然であり 継続的であると 把握される」

 「同じことのくりかえし、反復運動 とは 同じ速さでの反復という 速さの概念、同じ距離をという距離の概念、同じ周期、時間でという時間の概念の三者が含まれている(三位一体構造) 例 減速しない振り子、観覧車の回転運動」

 

 

 

「時間が同じ速さでながれていく、というのが客観的時間の重要な特徴である。ということは 時間のなかに 等速運動の概念がふくまれていることになる(時間と速さ)」

「そして その等速運動は 距離のひとしさで 認識される(速さと 距離)」

「つまり 時間のなかに 距離のイメージと 等速にすすむ運動のイメージが同時にふくまれていること がわかる」

「時間概念、時間という直観のなかをみると

 時間と 距離と 速さが 三位一体となっている 」

 

 普遍的時間とは 主観により 伸び縮みしない 単位で計測できる 長さ

 普遍的客観的長さ、距離とは 主観や状況で伸び縮みしない 単位で計測できる長さ

 普遍的速さとは、状況により 増減しない 単位で計測できる 等速運動を基準に 計測するもの。

 人間にとっての 基準となる 速さ は 等速運動ではないか。

  加速度運動(ここでは方向は同じで早さが増える運動とする、同じ速さで方向だけが変化する天体の円運動や方向と速さが変化する振り子のような運動、あるいは抵抗により減速する運動ではなく )は、落下するときなどに恐怖を覚えるジェットコースターのように非日常的であり 普遍的認識の基準ではないのではないか。

 

 

   

C    とりあえずの結論

 

  普通私たちは、時間と距離が基本的枠組みであり、速さは、時空の中を運動するものの状態を表現するものであり、二次的であると考える。時間と距離を直観し、速さは、それらの割り算から出てくる数字であると考える。

 カントの形式も時空からなり、また物理学でも時空の枠がまず設定されている。それゆえ時空こそが子供にとっても一次的であるとの思い込みは強い。論理的に抽象概念(時間)を直観に近く認識できる大人ではなく、子供は果たしてそうだろうか。人間の原初的認識はどうだろうか。

 

 それにたいして 次のように考えた。

  距離と速さが基本的に子供や人間にまず第一に直観されるものである。時間こそあいまいで、主観的ばらつきを排除できないとらえどころのないものである。時間は常に客観的要素と主観的要素を同時に併せ持つものである。通常 時計なしに直観される時間は内面的時間であり、客観性を持たない。客観的時間は、客観的に直観される距離と等速運動(速さ)から、逆算されたものであり、それゆえ二次的な観念であり、直観されたものではないのではないか。時間計測の歴史を見ても、等速運動するなにかから、時計になるものを見つけ出している。等速運動と その距離から 時間が確定されてきた、と歴史的にもいえるとすると、子供だけではなく、人間一般にとっても次のように言えるのではないか(それを物質化したものが時計である、その普及の結果 時計の示す時間が直観の対象 見てすぐわかるもの となった)。

 すなわち、時間と距離と速さは三位一体的に同時に認識されている。また時間と距離と速さは相互規定的である。それをあえて分けて、認識していると私たちは考えているに過ぎない(ここでは存在としての時間と空間の相互浸透を主張する相対性理論ではなく、ニュートン物理学における時間と距離とはやさについて述べている。ニュートン物理学における時間、空間、速さが人間の認識のレベルで相互依存的であると主張しているのである。)。

 

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   時間=一定の距離を移動するのにかかった時間

       1キロの移動にxかかるから 3キロ移動したので 時間は3xである。

       と距離で 計っている。

        火のもえる線香の長さで時間を計るように

        距離で時間を計る。

 

 前提には 火により線香は等速でもえるという 等速運動。

  時間は 等速運動するものが移動した 距離で認識されている。

 

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  直観数学のとく 速さの計算問題では、意味の抜け落ちた公式によらずして、基本的には定義を深く理解する純粋直観に依拠せよ、との主張の根拠は人間の時間、空間、運動の認識の根源的あり方にあり、その背景は深い。時間と距離をむすぶ概念は、等速運動であり、比例関係であると思われる。正比例はもっと深く教えられてしかるべき、あらゆる関係の基礎にある重要な関係性ではないか(比例については 後出)。

 

注。微分係数は変化する比例定数である。為替レートは、あらゆる価格を外貨建てで表示するときの比例定数である。

 

 

 2.一次元で解く方法を二次元のグラフにして考えてみる

 

@ 速さと時間と距離の算数問題について  

第二論文第三章第一節線分図の二次元化

 

 

  線分図は 一次元である。同一方向の線分で時間と距離を重ね合わせるというのは、時間を距離で認識するというあり方の象徴的表現になっていないか。同一のもののように扱う点で。時間の長さを距離で認識している、距離で認識した時間と、距離 を 重ね合わせている。

 

 二次元化して 、正比例のグラフにすると 距離と時間の本質的類似性すなわち

@ 時間も空間も 連続的 であること

A一定の単位ではかっていること 

B等質であること

C正比例のグラフにより(等速運動により) 時間と空間が 対応させられて認識されること

D時間と距離と速さが三位一体であること   などが 理解されるのではないか と思える。

 

 ということは 小学生にも 相似形(最近 相似と比例が 「同じ、あるいは 似ている」ことをおそまきながら理解し新鮮な驚きを感じた )などがわかるのだから 二次元でも 教えても よいのかな と思うが どうなのだろうか。

 

  注    比例とは 一次関数だけではなく 

 y=a x^n  (nは 正の実数)

  は 全て  yは x^n に 比例する と表現することを 最近 理解した。 反比例も yは x^n の 逆数に比例する と 表現できる。

 

 

A   ログの割り箸の一次元かつ三次元性 と対数グラフの二次元性 

 

第二論文にある授業実践記録、対数目盛りの割り箸は、たす というときには 一次元的であり、ひっくり返すというときには 三次元的 である。ちょうど映画のパノラマが半回転するような(第二論文を拝読して 1 で既述)。

 

 対数のグラフにする( これを二次元化ということにする )と、今度は真数の世界と対数の世界の関係が見えてくる。ネイピアが最初に対数を考えたときに、指数法則は知っており、計算にも使えることを知っていたが、ある数を 1.2.3.4.・・・乗した数字が飛び飛びになってしまう (累乗の数がふえるにつきどんどん間隔が広がってしまう)ので、実用的ではなかった、と数学史の本に書いてあった( ボイヤー 『数学の歴史』第三巻 )。そしてその結果が飛び飛びにならないようにした工夫が、逆関数とした対数である。つまりx軸にまず累乗した数をおくことにすると、×軸に、1.2.3.4.5.と 等間隔の数字を打つことになるから、累乗の数がふえるにつきどんどん間隔が広がってしまうということがなくなる。これが対数関数の発見につながった、らしい。これはxとyを逆転させることが特別な意味を持つ例だった、ということかと思う。なぜ特別な意味をもつかというと、指数関数(真数が1を超える数である場合)が、「どんどん間隔が広がってしまう」という特殊な関数だったからではないか。これがy=1/100000x^2 というような 関数であったとすると、逆にしてもあまり意味がなかったかもしれない。

 

 対数の関数のグラフを書く。縦軸は 加減に対応し 横軸は 乗除に対応する。 たて方向にグラフ上を少し移動すると、左右方向ではグラフ上を 異常に大きく 移動することになる。このイメージが 加減を 乗除に 転換するイメージなのか と 何日かまえに 気づき、あたりまえのことだろうが 自分にとっては 認識を深める「発見」だった。

 

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3. 第二論文をよんでの その他の  断片的感想

 

 

 @ 宇宙の拡大スピードは 超初期においては光速よりもはやかった

 

  アインシュタインの理論などでは、宇宙の中では 光速をこえて移動するものはない。が、ビッグバンに関する内容を読み、光速以上の速さで宇宙が最初に拡大した、と理論上想定されていることが わかった。すなわち、宇宙の内部では光速をこえて動くものはないのだが、ビッグバンという微小の宇宙が急に拡大する超初期(最初の微小時間)というのは、宇宙そのものが拡大する速さであるため、光速をこえている。また 宇宙の地平線の外側は、光速よりはやいスピードで遠ざかっているので、その限界(約150億光年 )が見える限界であるため地平線というのだそうである。

 宇宙の内部での移動と 宇宙自体の拡大が 異なる、という視点は、新鮮な驚きであった。

 

    注 ビッグバン理論では、ビッグバンの前はどうだったのか、とか 宇宙全体が素粒子レベルの微小であった時期に、その外側はどうだったのか、ということは、言わない。これもわたしが興味深く思う点である、カントのいう理性の認識の限界に関わる。

 

 現在の物理学や天文学の最先端に多分近いのであろうと思われる話は、テレビの放送大学でたまに見るが、その非日常的、空想的とおもわれる内容とその現実性(さまざまなデータで検証されているという点で単なる仮説とのみはいえない)に、めまいのような感覚を覚える。現実を説明するために作られたモデルとその検証。抽象モデルと具体的実験データとの往復。「抽象とは具体の括弧いれである。」しかし、括弧にいれられる具体が、素粒子レベルでの衝突の結果や特殊な環境を作り出したスーパーカミオカンデの水の中のニュートリノの残影だったりする非日常性。

 イギリス経験論の究極的ありかたの象徴。清里の近く、野辺山の電波天文台を見学し地球上の複数の電波望遠鏡を一つの大きな電波望遠鏡のパラボラの各部分として、データを合成して非常に遠くの、かつその電波の生じた時期は相当昔である電波の観測を見学して、経験論の延長はここまでにいたるのか、という感慨を持った。

 

A 三位一体構造  3者の相互関係の複合構造融合的構造について

 

 上では、時間と距離と等速運動が三位一体なのではないか、と書いた。

 さらに考えると、類似の構造が実は多く存在しており、わたしたちはそれに気づいていいないだけなのではないか、という予感がしてくる。なぜ多く存在しているのではないかと考えるのかと自省すると、世界のありかた全体の構造と、認識の構造に関係するような気がしてくるのである。抽象とは具体の括弧いれである。括弧の中に三者がふくまれており、その総合が、抽象。その本質的特徴は三者すべてを同時に(三位一体として)とらえたときに見えてくる。具体の括弧いれといういみでの生きた抽象。

 

 具体例を示そう。

 

A.  銀行の3機能の三位一体性

銀行の機能(抽象)=具体123=預金 貸出 為替機能 

三者は独立して存在し得ない構造の中にあり、その構造全体が銀行の機能となっている

 

銀行の機能には金を預かる、金を貸す、預金を振り替えて支払いをデータ移動により完了させる( 2002.4に 統合したm銀行がこれでトラブルを生じたので、一般に理解されやすくなったのでは )、という三つの代表的機能がある。預金、貸し出し、為替機能という。預金がなければ、貸し出しできず、また預金がなければ預金の振り替えによる公共料金の支払いなどができない(預金は貸しだしの源泉であり、振り替えの前提条件である)。また企業への貸し出しは、企業の当座預金等への振込みによりおこなわれ、銀行の貸し出しが、銀行預金を増やすはたらきをもっている(信用創造)。つまり預金と貸し出しが、連続的に増えていく。預金を貸し出し、貸したカネが預金となり戻ってきて、それをまた貸し出していく。あるいは貸すのではなく、支払った金も預金となって戻る。あるいは支払いそのものが預金の移動によっておこなわれる。預金貸し出し為替の機能は、三位一体となって、機能している。

 

B.貨幣の3機能の 三位一体性

 

 貨幣=抽象(具体1.2.3.)

=抽象(価値尺度機能、交換手段機能、価値保蔵手段機能)

価格を表示して、売買の仲立ちとなり、預貯金としてあるいは現金の形で価値(ものを買う力、購買力)を将来につかえるかたちで保持する。国際経済におけるドルで言えば、国際的商品価格は、石油などドルで価値を尺度して価格を表示している、ドル建てで貿易契約を結ぶ、各国政府はドルで外貨準備の多くを保有し、また企業や家計もドルでの資産を保有する。

 さて 価値尺度として 計算単位になりうるから 交換手段たりうる。将来にわたって交換手段であるがゆえに、その交換機能が保蔵される。よって三者は不可分の関係にある。貨幣に安定的に一定の長い期間機能する、という時間と安定という概念が尺度、交換、保蔵の概念に含まれている。その含まれているが明示的ではないimplicitな概念によって三者が結合している。ゆえに貨幣は 明瞭ではない。

 

 

B   貨幣と 時間に ついて

 

20年ほどまえ、朝日新聞夕刊文化欄で 社会学者 真木悠介(東大教授 見田宗介氏の筆名 ) が 共同体が 他の共同体と 接する境界で 時間がうまれ 貨幣がうまれた、と書いていた。外部との共通の尺度が必要になったために、普遍的時間概念、普遍的価値概念あるいは価値尺度が生まれたという趣旨だったように思う(これまでの ことばで 再構成するならば 主観的時間、主観的価値の客観化、社会化)。いずれも均質で、単位で計測され、社会性を持っている標準、基準としての尺度である。

 

 とすると 貨幣の機能の三位一体構造と 時間の 三位一体構造は なにか 関係があるかもしれない、と思われてきた。時間の交換 、時間の保蔵、時間の尺度機能・・・

労働で考えると、労働の交換、商品交換、時間保蔵は 生産物の保蔵、時間尺度は労働時間による労働生産性の計測、労働価値説・・・

 

 さらに 今度は、逆に時間から考えてみよう。時間の内面性、主観性と客観性を考える対応して お金への欲望や評価の主観的個人的相違と、同時に交換手段としての普遍的尺度の客観性。時間の抽象性と貨幣の抽象性・・・ 

 

貨幣の交換手段に対応して、言語のもつ観念の交換手段機能に着目して、貨幣と言語の類似性も言われる(基軸通貨のドルと国際言語しての米国英語の類似性  通貨の交換と 言語の通訳・翻訳 移し変え の 類似性 )。言語表現の多様性、いろいろな言葉、単語、品詞 組み合わせ がある、という点では、具体的であり、個別的、状況対応的手段であり、抽象的普遍的尺度としての時間と貨幣の関係とは異なる。

 しかし 数学を精密言語と捉えた場合、世界共通語という点では、英語を凌駕する普遍性を持つ伝達手段であることに気づく。 

 時間、貨幣、言語、数学、基本的論理・・・ 

 

5.2.2002  

4.第一第二論文を執筆されたks さん へ

 

第一論文、第二論文ともに 実際の具体的経験が かかれているため 考えを非常に刺激されました。数学という認識そのものに近い純粋形を高校生、小中学生に教え、直観的かつ構造的に深く理解させる、という過程が、人間理性の基本に深く関わっており、さまざまな 思索を つよく強制されました。このような 経験は 初めてでした。

 

なお時間について考えた後、世界の名著9「ギリシャの科学」のアリストテレスの自然学をよみ、時間について考えた後であっただけに、よくわかり、わたしの時間に関する推測(等速運動から時間をつかまえている、ということ)と同じらしい、と考えました。

中島義道「カントの時間論」1987はざっと飛ばし読みをしました。これで考えたのは、カントの時間とは 時間の枠であり、それは純粋直観であり、先験的であり根源的であり第一次的である。

一方、わたしの考えたのは、この入れ物の時間ではなく、その時間という入れ物の中で経過した時間、という個別的な時間についてであるから、「時間は自明に思えるが実は第二次的であり、距離と速さこそがが すくなくとも 子供にとっては 第一次的で直観可能なものである」、というわたしの暫定的主張と、カントの「時間が第一次的である」という主張は相互に矛盾しない、ということです。

 

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個別的時間の客観性は、つねに主観的な感覚により浸食されるから、別に時計などにより、客観性を補充し修正せざるを得ない。その意味で、客観的時間感覚は、主観性を意識的に排除する過程を経た後のものである点で、第二次的性格を払拭できないのではないか。

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2.     日本における数学のありかたに 興味をもつようになった理由について

 

     もっとも 純粋で 厳密な言語であり 世界共通の 世界認識である 数学にふれることより 「日本の一定の枠からある程度自由な思考」 ができるのではないか、と期待して、興味を持ちました。

 

それで高校レベルの数学をやってみて驚いたのは、数学という世界共通に見える知に関しても、特殊日本的な形で、日本は受容しているのではないか、と気づいたからです(つまり最も人間的でだれでもが感動できる数学固有のおもしろい部分を捨象して技術的な部分だけを受容し、また教育もその延長でおこなわれているらしいということ)。

  社会科学や文学、芸術=音楽、彫刻、絵画、文化、風習などでは、ある種の特殊なバイアスがかかって日本に受容されているらしい、とは思っておりましたが、まさか数学までとは、というわけで大変驚いたわけです。

よって ksさんの論文と主張全体が、日本における世界認識のありかたに対する総合的評論となっており、第二論文冒頭のノーベル賞への言及は、非常に象徴的であると思われます。あらゆる日本の知的活動について右脳数学の主張があてはまるのではないか、ということです。

 

 第一論文第三章最終部分に言及されている学力不振(にさせられてしまった)生徒の

@  忘却がはやく、記憶を保持できない

A  スイッチの切り替えができず、柔軟な思考ができない狭い視野

B   抽象的思考が苦手 

 という特徴は、日本の知的ありかたを示唆していないでしょうか。

Bについては、日本における哲学教育(法哲学、政治哲学、自然哲学、基礎的な論理学を含む )の不在、

Aは、第二論文に言及のある、論理学で重要な「必要十分条件」が数学の中でのみ扱われており、たとえば国語や社会、物理、化学などで 明示的に扱われることがまれであること。学問の専門分化のみが進み、大元の哲学教育がないため、もとは一つであるにもかかわらずばらばらに 教えられており、そもそももとは一つであったことすらわからなくなっていること。

@は 自分の国の歴史について、思想的立場を超えて、当てはまると思われます。

 

   注 数学では、数学的帰納法を学ぶ。しかし帰納法とは何か、についてはあまり説明しないのではないか。わたしがそう思う理由の一つは、この数学的帰納法は、論理学では演繹法(あるいは 完全枚挙帰納法 、同値関係にある別な表現による言いかえ )だからである。三段論法の構造になっており、経験の要素は一切ない。この認識がもし一般的でないならば、帰納法を教えていない、と推測できるのである。わたしは これを今年の冬、(自分としては)発見して、驚愕した。確認のため、論理学の本を読むと、書いてはあるが、あまり強調はされていない。

4.30-5.8.2002

 



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