第二論文
右脳数学(直観数学)構想 を拝読して 1
k.okuda
1. はじめに
私の経験から 数学に関連して 認識したこと。
1. 数年前、たまたま車のラジオから放送大学の数学史の講義をきき、大変興味深く思い、教材を買い、聴講した。数学がそれぞれの時代の世界認識の一局面を意味していること、および西洋哲学理解に数学理解が不可欠であることを認識した。数学へのマクロ的視点をえた。すなわち個々の計算や証明を見ると同時に、それぞれが何を結局やっているのか、という視点である。この視点は意識的に教育されていないように思う。
2. 二年前、図書館で
「ゲルファント先生の学校に行かずにわかる数学 1 関数とグラフ」(岩波書店)を見つけ、そこにたくさん描かれているグラフを見て、いろいろ考えた。計算ではなく、関数をグラフにする、グラフでイメージするという自習用教材である。それを読むと、ゼロ、や1の重要性がわかる。関数の逆数をとるとy=1 で 逆転するグラフとなる。絶対値を関数全体につけると、x軸で反射する形になる。それらは計算と無関係であるが、それだけで関数の性質を読む力を得た、と感じる。対称性、逆とはなにか、同じとは何か、軸を動かすとはどういうことか、逆関数とは何か、45度の原点を通る直線の意味は、など。
3. 高校の数三の数学を復習すると、それまで学んだすべての関数の微分や積分をやる。そうすると、関数とは何か、連続性とはなにか、などを考え、その包括的な定義やならった原理の拡張がどこまで可能か、どのような条件のもとでならば、それは全称命題たりうるか、一般的にいえることとなるか、などを考えるようになる。微分・積分できるとはどういうことか、次元とはなにか。無限回 微分・積分できるとは どういうことか、など。あるいは球の体積の公式をrで微分すると、表面積の公式が導出され、円の面積の微分で円周のながさの公式が出てくる。次元がひとつ小さくなる、あたかも薄皮をはがすようにその薄皮の面積がでてくるのだが、同様にいろいろな立体、円錐、円柱、多角柱、立方体などの表面積も出てくる事に気づく。あるいは、三平方の定理は一般に正方形の和で証明するが、同様に三角形や六角形でも円でも、正方形に比例する(相似形であるならば)のであるならば、一向にかまわないことが、考えるとわかる。これらの「拡張」や「一般化」 =風通しのよさ、=視野の広がり がわたしの受けた教育にはなかった。
4. 経済で規模の経済という言葉がある。生産規模を大きくすると、生産物ひとつあたりの生産費が安くなる、効率的生産が可能になるということだが、これをガスタンクのような球体の入れ物を例として考える。
球を、その内部を加熱して化学変化を起こさせる装置とする。球体の表面積が熱の損失量に比例するとする。球体の体積は半径の二乗に比例して増え、表面積は半径の一乗に比例して増える(と微分した結果わかる)。とするとより大きい球体のほうが体積あたりの熱の損失は少なくなるはずであると、いうことがわかり、規模の経済のひとつの技術的理由が 推量できる。
5. 以上は計算も必要だが、最小限度の計算だけできさえすれば、( 整関数の微分の計算手順、アルゴリズムは小学校の分数計算のそれよりも単純である、=第一論文より )原理的理解が可能であり、それは、ことばで表現できる。 これは頭のよしあし、計算能力と無関係のだれでも、関心さえあればわかる内容であることに特徴がある。
「 数学の原理的理解は 言葉による表現と密接である。」
「原理的理解は、通常に言う あたまのよしあし と無関係である」
「ということは 全員できてしまうので、試験にはでない。受験対策では、飛ばされてしまう。」
「しかし 数学の本質が 理解できる生徒は 計算など能力差がでる部分も できるが 同時に 教えられなくても 原理的理解に 達することができる。 すなわち 原理的理解は 生徒の 偶然の 気づき に ゆだねられていまいか。それらの 生徒たちのみが、国立難関大学に 入っていく? 」
6. 第二に私の経験上、学んだことは
英語の習得、血肉化 日常化 と 数学を学ぶ のは 似ている、ということである。私は、今後 哲学にかかわる議論等をすることが 出てくるとすると 関係が出てくると思うので申し上げると、高校時代アメリカに二年弱家族の都合で滞在していた者のうちの一人である。
英語も 読むだけの英語では 相手とコミュニケートできない。生の英語を現地で聞き、発声し、耳で聞き、字を読む、という4つが有機的にバランスよくできるようになる必要がある。それだけではまだ不十分で、相手と親しく付き合い、相手の文化や生活のこまごましたことまでわからないと、本当にわかったことならない。またつねに 英語に接していないと、生きた英語を理解できなくなってしまう。空気のように英語を吸っていなければならない(反復、継続、無意識化の重要性、英語に関す感覚の 共通感覚による統合 → アリストテレスの「共通感覚」、後掲の注 「共通感覚論」p.8に引用されている)。
いまだ日本では英語を、日常で話せるようにはなっていない、と思われるが、その理由は、英語を話す人間の世界認識、どういう状況で、どういう表現をするのか、話す人間の、あるいは社会のみえないが重要なものを 教える視点があまりない、ということにあると思う。
数学でも、本を読んで計算や解を紙に書く、だけではなく、耳で聞き、といていくリズム、時間、ながれを体験したり、板書をみたり、口で質問したり、が重要に思う。これは放送大学のラジオでの数学史、テレビでの、線形代数1.および 微積分学1(とびとびにのみ受講)を受講しての実体験からの感想である。
「数学は抽象度が 日常会話よりも 高いから 本で読む、字や記号、数式を書く、ということが 不可欠であるが 同時に 耳で聞いたり、口で 確認・復唱したり することも 日本では強調されることは すくないかもしれないが 私の経験からは 重要であると おもわれる。 なぜなら 口で言うと 要約していうことが できる、定義を語る、構造そのものを語る、 マクロ的に再確認する ことに つながるからである。」
「耳で聞き、口で話す、ということが 人間間のコミュニケーションの基本であり、顔の表情 たとえば 難しい、やさしい、などのことが わかる、ゆえに 数学をやっている 生の人と 会話できることが 非常に重要である」
かぎ括弧は まとめ というほどの 意味
7. 原理的理解と アイデア 発想 の想起
グラフがイメージされると、ちょうど棋士が、将棋版を目の前にイメージできるように(第二論文 冒頭部分)、寝ながらあるいは 寝ておきるときなどに 発想が浮かぶ。発想には 原理的かつ視覚的イメージが重要なのかもしれない(さらには 駒をもっている という触覚)。いつでも イメージできるということが 大切で、これは 数学上の定義を口で言えること とも 密接であるように 思う。たとえば一対一対応は、グラフで書くと、どうなるか、など。
2. 生成文法 と 生成数学(仮説) と
根底的心的能力](仮説) について
生成文法のモデル 考え方は 数学にも 使えるのではないか。具体的言語の文法の基底にあり、さまざまな言語の文法を したから支えるとともに、将来にわたって生み続ける母なる 生み出す、generative=生殖力のある 文法。
同様に さまざまな 分野の数学 代数、幾何、あるいは 微積分、線形代数、集合論の背後にあって、さまざまな数学を 将来にわたって 生み出し続ける 母なる生殖力ある数学的心的能力、これを 仮に 「原数学力the fundamental math mind」と命名し、以下 mind と略記して考えてみたい。
このmindは、生活世界における感覚の総合的使用(右脳数学 → 第二論文 あるいは ルソー「エミール」第二編 あるいは 中村雄二郎 「共通感覚」 )とも 密接であり、生活世界と 原数学を 往復すること( 抽象と 具体の 往復 → 第二論文 )で わたしたちは 個別具体的数学を 深く 理解し 操作 利用できるようになるという仮説を考えている。
また この mindは、 論理を支えるから、言語表現さらには 音楽や芸術、スポーツ、場所の地理的把握、時間把握、自動車の運転、交通機関の利用、部屋の配置換え など あらゆる生活の場での 判断を したから支える 心的能力である。日本ではこのmindと数学がまったく 無関係であると 思われているため、「数学は何の役に立つの、」 という質問が途切れることがない。
注 原数学こそ数学の本質であると思われるが、通常 子供、生徒は 計算をして 答えを出すことが 算数や数学と おもっているのではないだろうか。オラウータンが、バナナを取るために、箱を積み上げて、倒れないようにして、さらにその上にのりながら棒をつかってバナナをたたき落とす、という実験がある。これも数学、とはいえないか。つまり 大きな箱から順に バランスが取れるように、積み上げていく、というのは大小関係の認識が含まれているし、仕事の手順にも順番への考察が含まれている。つまり 原数学 というものを あると仮定すると、動物一般にも 部分的に内在している 心的能力 とも通底するもの、とはいえまいか。
その意味で この mindは カントの 純粋理性に内在する 概念、形式を 別な角度から みたもの である。Mindの 数量的世界把握能力は カントで考えると、空間的把握、時間把握の 別な 角度からの 切断面に 顔を出すものであるように 思われる。
長さ、回数、繰り返し、序数、量 と 数字 は 空間と 時間 の 大小関係、順序、単位を基準とする大きさの把握と 関係が深い 。 また 全称判断、特称判断、単称判断などの概念、あるいは頻度、割合、可能性、蓋然性 は 数的判断である。
ブライアン・バターワースの「なぜ数学が『得意な人』と『苦手な人』がいるのか」の英語名は the mathematical brain だが
実質は、数字(すうじ)的=the numeral brain ではないか。 その意味で よんでみると、わたしの想像・期待した 数学(すうがく)的な根底的能力について述べたものではなかったが、しかし よくよく考えると、数字=numeral の mindに 対する関係は 本質的である。なぜなら前述のように時間、空間把握と密接だからだ。
さらに考えると、このmindは 認識だけではなく、倫理的理性、あるいは 美的判断(真善美と崇高、カントの2つの理性と判断力 )とも 深い関係があり、加えて 人格的統合、人格的自律 という 人間の存在の 中核と 直結しているように思われる。それゆえ数学ができるようになった生徒は 尋常でない喜び を感じたのではないか。(第一論文 第7章 ほか)生徒の喜びは いままで不可能と思われた理解が 一時的にせよできた、という達成感はもちろん、実はそれだけではなく、人生における 特別な意味 ----つまり いままで 認識不可能であった 広大な領域が 認識可能な(その時点では可能性ではあるが)領域に転化し、今後の生活での 生み出す数学力(mind 未来への力) との 回路が 形成された---- が あったとはいえまいか。
この カントの3批判書に対応する3つの心的能力と人格的統合と自律の根底的能力を全体、いわく いいがたいなにか、を 命名しがたいがゆえに、根底的心的能力] (以下 ]と略記 )と名付けるならば、この]には 生成文法も the fundamental math mind もふくまれる、といえる。あらゆる 精神的 活動を 包含し、諸感覚とアリストテレスのいう共通感覚とを 包含し、それらを統合する もの。 名前はともかく このような 心的統合能力が わたしたちの 内部に存在すると仮定することは、それほど奇異なことではない、と思う(多重人格とは、この]の多重化と考えると、より深く理解できるように思う)。
重要なのは、人格的生存と感覚と数学や言語が精神の深部で結合しているという視点である。その]のレベルで理解されたことは、繰り返しが必要なことは、英語と同じであるが、しかし20分で 忘却してしまう 浅い理解とは まったく異なるのではないか。
第二論文の後ろに触れられている本当の深い理解とは]に達した、]と往復する理解(=recognize= re + cogito = 英語の「理解」には繰り返し認識すること、反復、回帰の意味が含まれている)および「抽象と具体の往復」(第二論文)の意味が含まれている。ただし]は、抽象と具体に二分できない]である。
高校では、いくら学習困難校であっても高校の数学を教えよ、そのために右脳を左脳と協働させてつかう指導を行い、 かつ繰り返し 小さなステップに分けて 教える相手をよくみ 相手から学んで 時間をかけて 教えよ、との主張は、高校生には高校数学を教えることが]に達する最もよい手段だ、との隠された主張が含まれているように思う。高校数学を教えてこそ、生きる力と 驚嘆すべき大きな喜びにつながるのであると。
私の言葉でいえば、この教育実践のすばらしさは、]の人格の根底レベルにまで 達していると 思われる点である。すなわち数学教育が、将来の生きる力 generative powerへとつながっていると思われる点である。
3. 対数 の 高校数学 にしめる 特殊な 地位について
対数と指数の分野は、もっとも難しい分野のひとつという(第二論文)。確かに 私も 徐々にわかってきたのは、高校数学をやり直した、この数年のことである(40代後半になってから)。この分野の難しさは、わたしの思うに、異なる種類の演算を入れ替える、という発想にある。それゆえ、歴史上の大発見であり、計算を革命的に容易にしたのだが、発見には時間がかかった。日本では、教科書で単に 前の単元の次に、この単元をやり、淡々と単に計算を覚えて演習するだけ、のように進めていくが、これはすごいことなんだ、と強調してほしかったと生徒の立場からは今、おもう。
注。第二論文の授業では、それは 導入で わかる ようになっている。すごいんだ、と 教える側が いうのではなく、生徒たちがそのすごさ、威力に自分で気づくように指導されているところが、優れている。
大学ではラプラス変換をやるが、高校までは、演算を入れ替えるというのは、この対数の分野だけなのではないか。これが 独特で 他の分野と 構造的に違うところである。
また ログ の 記号と二つの数字(底 、真数) で ある特定のひとつの数字を表す。 ちょうど ルートと 数字 で ある特定の数字を 表すように。これがある数字を 一対一対応で ひとつだけ あらわしている、ということを 認識するには、グラフを 示すのが 一番よいように思う。
上の例では x が正で、いずれも 増加関数で 一対一対応している(ログの場合は、底を定数とした場合)。ということは いずれも逆関数をもつ。そしてこの逆関数をもつということが、演算の入れ替えを可能とすることになっている。とすると 対数の重要な特質のひとつに一対一対応がある、はずだが、通常の高校教科書などでは、強調されていないように思う。
注。3の1/5乗の近似値をもとめる 例題を 、いつもは 計算する数学 に触れていない社会人の一人として考えてみた。
一般化する と 3の n乗の近似値をもとめること、といえることがわかる。そして、指数関数、対数関数ともに連続関数であるから、nは、任意の実数であれば よい、ことがわかる。わたしは、ここでぎょっとした(3.28.2002)。
nは、負でも無理数でもよいし、ゼロで、もよい。ゼロの場合は1と答えればよい。nの無理数が複雑な形をしていても、分解してやり、立方根や平方根の表で近似値をもとめて計算すればよい。真数が 大きな数なら、素因数分解して、対数の和として計算すればよい。なるほど。 いかなる計算がどこまで可能か を認識するまではこの すごさはわからない。
対数の授業 について
対数の授業が 成功しているのは、この 演算の入れ替え
が 明確に 対数の国 の言葉と演算、
真数の国 の言葉と演算、という形で 示されている点である。こここそが、ポイントである と 思う。
数字の 入れ替え、操作は これまで やっている。しかし 演算を 入れ替える、というのは たぶん *ここだけ なのではないか。
ある操作 そのものを 入れ替えてしまう、このイメージは 豊かである。操作そのものを 操作の対象と するのであるから。
* 注。思い出すと、微分か積分をするときログをとる、という方法があった。また 大小関係を調べるときに、ログをとる という事例があった。前者は対数をとる、という点でこの授業と おなじ局面をあつかっている。大小関係では、自然対数が、単調増加関数である、という点を利用していた。3.28.2002。
* さらに ここまで書いて、考えた。増加関数を別の増加関数に置き換える、という操作は、何回繰る返しても、順番、大小関係は維持される。この操作そのものを 体系化して 教える こともできるような気がする。単純な増加関数を一定の操作をすることにより、複雑な増加関数にしたり、逆に単純化したり。逆関数にいれかえて、増加関数を減少関数にしたり(この場合、定義域の問題がでてくるが、第1象限に限定すればよい)。ログをとるのは一回だけ、というのは 経験したが なぜログをとるのか が 今一歩わからなかった。大きな入れ替え という 操作全体のなかで 意味づけされると よくわかるような 気がする。
また 割り箸の使用は いろいろな点で優れていると思われる。
第一に 長さに 触ることで 長さという 数的把握の 原初的な感覚 との 邂逅がある。また長さの把握を 足し算、引き算と 対応させている点である。
第二に触覚 と 立体的な 空間把握、裏返しにすることと演算、逆演算の関連付けである。 (割り箸を裏返しにする、反転させることで 足し算と引き算を 入れ替える、そして掛け算と割り算を 同時に 入れ替えている。 演算の入れ替えの触覚化が なされつつ、また 長さを あわせること と 足し算 という 小学校以来の 能力と無関係なだれでも もっている基礎的だが 最も重要な 認識 Xに降りていっている )
また 表を使うことにより、演算の対応、数の対応が直感的瞬時に読み取れるように配慮されている。
「直観と触覚、直観と空間のねじれ、反転、裏返し、移動と わりばしという具体物 直観と 表、グラフ 直観と視覚、触覚 視覚と触覚の統合→ルソー「エミール ・ 第二章後半部分」」
4. 抽象と 具体、その間の 往復運動について
抽象とは 具体を 同時に保持しているなにか、である。抽象とは具体の 一時的括弧いれである。 出したり、入れたりできる状態が、維持されまた 実際にも 周期的に 反復的( 継続 ) 回帰的( 故郷への帰還 )に 出し入れをしなければならない、との 主張だと 思う( 第二論文 )。
1.二分法
この往復運動は 昨年考えたときに、ポイントであると思った点である。抽象と具体の二分法と その動態的把握 は、単純のようで、さまざまな分野で 考えを自分で進めていくときに 推進力となる考え方であるとおもう。
理論と現実、数学と実感、書物と生活世界、合理と経験、法と事実、巨視と微視、演繹と帰納・・・・・
注。おなじ教訓をたれても 言っている人間により なぜ 重さが違うのか。聞いている人間も、いっている抽象的教訓を 具体との間で往復しつつ 聞きわけ理解しているからである、とはいえないか。抽象の中に具体が透けて見える・・・・
プラグマティズムや 英国経験論の伝統・・・
2.二分法の二重構造、入れ子構造
わたしは、さらに 次の 点を 加えたい。二分法により明瞭となる諸関係のほかに、抽象と具体の多重的構造をイメージすると わかりやすい局面もあるのではないか。抽象と具体の関係は、法律で言う 一般法と 特別法 の 関係とおなじに 相対的関係を示す と理解すると理解しやすい事象があるように思う。民法と商法は 一般法と 特別法の関係にあるが、商法とさらに証券取引法は 同じく 一般法と 特別法の関係にある。
この発想を得たのは、メイルで引用文を送っていただき、ハイデガーの哲学を考えたときである。
注 以下に書くことは、あくまでも 僭越かつ主観的推測に過ぎない。
ハイデガーの哲学は、他のすべての哲学を括弧に入れた上で、展開されており、さらにその括弧の中の哲学が、具体を括弧に入れている。この構造が その 難解さの 理由のひとつなのではないか。抽象と具体の往復を 読者は二重に するようもとめられる、という点である。かれがデカルトに言及している場合でも、デカルト以外が同時に括弧に入れられている。
あるいは x が存在している、xが このような しかたで 存在している、というのが 第一の抽象。さらに それらの存在者 全体を 括弧にいれた 存在者を存在者 たらしめる 存在 そのもの が かれの 対象であるために、難解である、ということなのではないか。現代哲学や評論の難解さが 示唆される。
注 この 認識構造の二重性は いろいろな局面で 顔を出すように思われる。
数学においても、合成関数がある(関数を ある操作である、と考えると 操作が二重に 行われている、そしてその全体が、式にあらわされて認識対象となっている)。
短歌では本歌取り、がある(本歌で歌われていることとその取り巻く状況 と 本歌の関係 を さらに 本歌取りの歌 との関係でみる、時間のずれや状況の変化という 関係性そのものも 潜在的に うたわれている )。
心理学的認識現象では、デジャビュ=既視感、一回見たことを見ている、感じている感覚。過去に見たことと現在見ていることを同時に見ている、さらにそのような印象をもっている自分のありかたを さらに別の自分がみている という みることの二重構造。
3. 二分法の多層的重層構造 ----- 多層構造のなかの抽象と具体
さらに抽象と具体、一般法と特別法という関係が何重にも形成されているとみることができる 事象がある。抽象と具体も 徐々に 具体性を帯びていく、徐々に抽象化していく、というように何重にも関係が組み合わさっている、と理解できる事象もあるように思われる。
あるいは 抽象と具体とのあいだのゆらぎ、陰影・・・
4. 分離不能な 抽象と具体の同時存在
的 事例
そして、ピカソの絵があるが、ピカソはあくまで具体物の形をもとに複数の部分を切り取って、ゲルニカの牛などの 部分的に抽象的な形を描いた( cubism )。ピカソの絵は、抽象と具体の両方を併せ持っているといえまいか。では ミロはどうか。モーツアルトのレクイエムは具体なのか抽象なのか、マルセル・デュシャンの 男性用便器=作品名
「泉fountain 」1917 は具体か抽象か、そもそも抽象芸術とはなにか、など 考えは広がっていく。
http://www.zumbacombo.com/duchamp/fountain.html
かつてわたしが 考えたのは、人間の顔を 描いた 少ない描線による 肖像画の 具体性である。これを抽象といえるのだろうか、と。具体的抽象、抽象的具体。具体と抽象の同時存在。二重性。
「抽象と具体、帰納と演繹は、往復運動がそれらに関する理性の本質的運動特性であり、いずれか一方では理解できない、ということである。精神は常に移動しつつ認識していく・・・」
「コラージュ」という、具体的な 素材 紙や布や板切れ、新聞の破片などを 立体的に 貼り付けていく という 表現がある。具体と抽象、具体的断片同士の 関係の 象徴的 表現、断片の 現実のなかの 関係性の 表象・・・・・
注。数学は形而上学か 形而下学か 抽象か 具体か?
アリストテレスをよむと、自然学 と 数学は 別立てになっていた。自然学のあとの巻を メタ自然学 と 命名したのだが、自然学でも 自然学の後の巻 でも ない、というのは 数学の 特性を 象徴していまいか。
5. 具体の括弧いれ と 抽象 を 考えつつ 古典を 読む
ルソーのエミールを今回読んで、その文章の「具体性」を実感した。 アダムスミス(国富論 英文)やベンサム(法と道徳の原理 英文 冒頭 )の英国経験論の伝統のゆえかと思われる文章の平明性と具体性、デカルト(方法序説)、プラトン(国家)の現実性、というように この 具体 と 抽象 の議論は 哲学的文章などの 直観的印象の 平易さ、難解さの 理由の分析にも 使えそうだ。
デカルトやプラトンの具体的というイメージは、彼らの文章がわかりやすく、生き生きしている、ということに加えて、これが重要だと思うのであるが、私たち自身が自分の具体的経験、印象、感覚のなかに、対応物を見出し、それを再発見再認識しつつ それゆえ 自分の頭で 考え、問答しながら 文章を 読み進めることができる、から とはいえまいか。
「具体と抽象の往復運動による認識の深化」
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注1。 ルソー 「エミール」 第二編 後半部分は 諸感覚の教育との関係が詳述されており、この論文を書くにあたり、再読し、右脳数学論にとってすべて有用ではないか、との印象をもった。
「どんな学問であれ、表象されている事物についての観念がなければ、表象している記号には、全く意味がない。それなのに、人々はいつも記号のみを子供に注意させて、決して記号の表象している事物を理解させるには至らない。子供に大地を描いて見せようと思いながら、地図をよむことを教えるにすぎない。」世界の名著 ルソー 410p。
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注2.中村雄二郎 「共通感覚論」 岩波現代選書 1979 pp.7—11 有用な指摘がある。またp.5 4行目以降には、ルソーの上の引用文と同様の指摘がある。
「もともとコモンセンスとは、諸感覚にあいわたって共通で、しかもそれらを統合する感覚、わたしたち人間のいわゆる五感に相渉りつつそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力、つまり共通感覚のことだったのである。」p.7
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注3. パスカルの 挿話
パスカルは修道院に入って 10年以上 数学から遠ざかっていたが、ある晩 あまりにも 歯が痛むので、いままで 放置していた 証明問題を とくことにした。それに没頭したため、歯痛を 忘れた。 証明が 完成すると日は のぼり、気がつくと 痛みが消えていた。
この話は 象徴的で わたしの好きな 話である。感覚と数学 との関係を うまく あらわして いるように思う。苦しみを忘れさせる数学。苦しみを乗り越えさせる数学。generative元気な数学・・・・
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以上 2002.3.27
3.28 ログの計算にぎょっとする経験をしたのでその挿話と いくつかの注 を追加
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