カント・チョムスキー・ヘレンケラー

 

読書の方法として、熟読するのではなく、大きく著者の考え方の枠組みをつかんだら、あとは 自分で考えるという方法があります。 

 

 

カントは、経験( 実験、観察 )から私達は現実に存在するものを捕まえ、理解する。それらは、外部にあるものに思えるが、実は私達の理性の中にある枠組み、生まれながらにもっている共通の形式 ( 時間、空間、原因と結果の関係、頻度、仮定形、選択A or B の形、相似、比喩、対称形、同値関係 など ) で整理されて捕まえられている、といいました。( 「内部が 外部を決めている」 意訳。) 

 

 

ここに魚を捕る網があるとします。この網で捕れる魚の大きさは、捕る前から分かります。それは「網の目よりも大きいもの」であるはずです。

また、赤いサングラスをかけて、隣の部屋に入っていくとします。そこに何があるかは分かりませんが、「赤いもの」が見えることは、前もって分かります。この網の目の大きさやサングラスの色が、先天的な「理性の枠組み」です。

 

さて、アメリカで1950年代、チョムスキーという言語学者があるモデル(考える枠組み)を発表しました。それは次のようでした。

 

「赤ちゃんが、瞬く間に言葉を習得するのは、なぜか。親はしばしば文法的に間違った表現をするが、それらを選別して、正しい話し方を少ない経験から学び取る。これは、赤ちゃんが、うまれながらにして、あらゆる文法に共通な母なる文法を持っているからではないか。これを 生み出す=generative 文法 と名付けよう。」

 

その生成文法のなかには、

「ある言葉は、ある物や事柄をあらわしている」

というあらゆる言語に共通であるルールが含まれています。

 

それまで言語学は、たくさんの言語のなかに文法などの共通性、相互の歴史的な影響・伝播など、観察できる外を対象としていましたが、チョムスキーは人間の内部にあるルールの研究にかえ、心理学・哲学などの他の学問との関係を劇的に変えました。

 

この考え方は、ヘレンケラーが、サリバン先生の指導で偶然、それまでは単なるあてはめのゲームだと思っていた井戸水と指文字から、w-a-t-e-r が、いま手にあたっている冷たい水そのものを表している、ということを発見して、電撃的な感動を受け、広い世界を発見したという、あの事件の理解をより深くするように思います。

 

彼女は、生み出す文法 を生まれながらに持っていたので、サリバン先生が来て、一ヶ月で、言葉の本質を理解できたのだ、とはいえないでしょうか。

「ある言葉は、ある物や事柄をあらわしている」

 

 

さて、話は変わって、リチャード・ドーキンスという生物学者は、人間や動物の行動を、遺伝子からみるモデルをその著書『利己的な遺伝子』で示しました。

 

動物に広く見られる、親が自分を犠牲にして、子の命を守ろうとする行動も、遺伝子を保存する、という観点から見ると、より若い種族を助けることが合理的であり、自己保存的(自己犠牲的ではなく)である、というわけです。

このモデルは、人間中心から遺伝子中心に視点を逆転させた生物モデルといえます。

 

 

カントは、外の経験とみえるものも、理性の内部の枠組によって経験を理解しているとして、外を内面に転換しました。チョムスキーも外に観察される言語が、実は人間の理性の中にある生成文法の基盤の上に成り立っているというモデルを提示しました。同じようにドーキンスも内外の逆転を行いました。 地動説を唱えたコペルニクスも同じです。

 

さらに考えてみると、人間の理性は、このようにうちと外を逆転させる事で、認識を深め、新しい発見をするという理性の運動枠組み=ダイナミズムを基本的に持っていると考えることはできないでしょうか。

 

そういえば、中国の絵画によく描かれるという荘子の「胡蝶の夢」、という話もありますから、東洋でも同じことが言えるのかもしれません。

 

ディズニーランドがはやるのも、旅行、ことさら海外旅行が好まれるのも、この理性のダイナミズムと無関係ではなさそうな気がしてきます。皆さんは、どう思われますか。

 

注一.ヘレンケラーについて

 日本では、ヘレンケラーというと、あのアカデミー賞を取った映画「奇跡の人」が思い出されます。今回 念のために、それをビデオで見て(速回しで)、ヘレンケラーの自伝やサリバン先生の手紙を編集した本などを、読んでみました(速読で)。そこで発見したことのうちのいくつかを次に書いてみましょう。

 

一.映画の奇跡の人の英語名はthe miracle workerで、奇跡的な働きをした人、という意味で普通に思われているヘレンケラーではなく、サリバン先生のことをさしていること。女優賞の受賞者はサリバン役の女優です。

二.ヘレンケラーは、経済的理由から何冊も本を書いています。それらをまとめて、「我が生涯」の題名で角川文庫から出版されています。奇跡の人の映画が描いているのは、その中の、たったの三ページ半に過ぎません。

三.彼女は大変活発で体力のある(サリバン先生を突き飛ばすことができる)健康で知的にも優れた子供でした。大学では哲学が好きでした。カントも大好きだったようです。それは彼女の感覚が制限されていても、理性の共通の形式が存在するゆえに、彼女の認識は他の人と共通の基盤に立っていて、決して歪んでいないと、確信させ自身を持たせてくれたからでした。

 

注二.胡蝶の夢

ある日、荘子が眠っていると、夢の中で荘子は蝶になっていた。 ひらひらとのびのびと飛んでいたが、目が覚めると自分は、まぎれもなく荘子であった。あまりにも蝶であった実感、自由に飛んでいた喜びが鋭く、かつ現実的であったので、荘子は考えた。

 「自分は、実は蝶で、今は荘子になった夢を見ているのではないか、それとも、自分は荘子で、蝶になる夢を見たのか・・・」。



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