第二論文 

右脳数学(直観数学)構想 を拝読して1

の感想その1

 

1.  はじめに 

 

数学がそれぞれの時代の世界認識の一局面を意味していること、および西洋哲学理解に数学理解が不可欠であることを認識した。数学へのマクロ的視点をえた。すなわち個々の計算や証明を見ると同時に、それぞれが何を結局やっているのか、という視点

 

 奥田さんは、西洋哲学の理解を深めるために数学を勉強されていると感じました。たしかに、西洋においては数学と哲学お互いに影響を受けながら発展してきたと思います。プラトンは、幾何学を知っていることをアカデミアに入るための条件としていました。近代哲学の父であるデカルトも数学を重要な学問に位置づけていました。デカルトは彼の合理論を数学のように、公理から演繹する体系にしようとしました。スピノザはエティカにおいて、ユーグリッド幾何学のような演繹的構成を試みました。ニュートンとともに微分積分の発見者とされているライプニッツも、普遍数学構想を考えました。(右脳数学構想という題名は、デカルト・ライプニッツの普遍数学構想から借用させていただきました。)

ライプニッツは、数学が発展していけば法学の問題や哲学の問題まで、方程式で計算できるようになる、と考えていました。論理学の数学化という構想は、ブールによって受け継がれ数理論理学(ブール代数)になり、ブール代数によって、コンピュータが設計され、コンピュータで色々なことができるようになりました。部分的にはデカルト・ライプニッツの普遍数学構想が実現しているといっても、過言ではないでしょう。法学の問題も、コンピュータが結論を出すようになるかもしれません。

近代で数学を重要な学問として考えていた人の例としてカントをあげることができます。カントは数学をアプリオリな総合的(拡張的)認識であると考えました。おそらくカント哲学の核心をなすコペルニクス的転回も数学の研究なしには、発想されることはなかったと思います。

現象学的方法を築きあげたエドムント・フッサールも数学科出身で、はじめは数学基礎論を研究していました。現代哲学では、バートンランド・ラッセルも例に挙げなければなりません。同じ分析哲学に属したヴィドゲンシュタインも数学の力に長けていました。彼はヘリコプターのローターの発明者です。

ヨーロッパでは現在においても哲学者は、数学はばりばりの方が多いと聞きます。この辺は日本とは対照的ですが、奥田さんが後述べている中村雄二郎や廣松渉なども最初は物理学科を志望していたといいます。

数学の背景には奥田さんがおっしゃる通りmindあると思いますし、日本ではこの背景のマインドが非常に軽視され、数学とは計算であるという誤解が広がっていると思います。数学は哲学とは切り離せない、学問であり、思想がなければならない、となるべきですよね。

 

2.  生成文法 と 生成数学(仮説) と 

根底的心的能力](仮説) について

 奥田さんの生成数学(現数学)というご意見に賛成です。人間にはアプリオリに数学を認識する能力がある、と思います。掲示板に書いたことを引用させていただきます。

私の子供達(8才と6才)を見ていますと、算数で学ばなくても、分数の観念やわり算の観念などを持っているのではないかと思われるのです。なぜなら子供達は、ケーキを4等分したり、合わせて1つにしたりできるからです。6才の娘はまだ学校に上がっていませんが、5つのケーキ買ってきて、2個食べたら何個残るかの問いに正確に答えられます。」

動物も数を理解できなければ、生存競争に勝てるとは思えません。卵が1個食べられてしまって気がつかないようでは困りますよね。ボノボでも鍛えれば数を数えられるようになるといいます。人間は、見た瞬間に何個あるかわかるのは5,6個ですが、オラウータンでは20個ぐらいでも一目でわかるそうです。人間とは違う思考能力を持っているのでしょうね。

カントがアプリオリな感性の形式であるとした時間・空間も数学を研究してのことです。生成数学の原始は、奥田さんがおっしゃる通り、カントにあると考えても突飛であるとはいえないと思います。

私が考える直観は、おそらく奥田さんがおっしゃる現数学です。人間が持つアプリオリな数学の能力=直観なのです。

 

 

3.  対数 の 高校数学 にしめる 特殊な 地位について

第二に触覚 と 立体的な 空間把握、裏返しにすることと演算、逆演算の関連付けである。 (割り箸を裏返しにする、反転させることで 足し算と引き算を 入れ替える、そして掛け算と割り算を 同時に 入れ替えている。 演算の入れ替えの触覚化が なされつつ、また 長さを あわせること と 足し算 という 小学校以来の 能力と無関係なだれでも もっている基礎的だが 最も重要な 認識 Xに降りていっている )

 

 奥田さんの論文を読ませていただいて、数ある洞察の中でもっとも驚かされた考察は、割り箸の反転と逆演算をパラレルなものとして指揮されている点です。というのは私自身全然気がついていないことだったからです。

 ここで私は、高校時代に体験したことを連想しました。私は高校時代四月に数学の教科書をもらうと1,2日で読破していました。そのときも、一日で半分を読み、微分方程式の問題に入りました。dy/dx=xは単に両辺を積分すれば解けます。このような問題が数題並んでいて、すらすら解いていたのです。

ところが何題目かに、dy/dx=yという問題がありました。

ここで私の鉛筆は止まりました。ウン、単に両辺を積分しただけではだめだ、どうしたらいいんだろう?ずっと教科書を読んでいて、疲れも感じていたので机の隣にあるベットに横になろうとしました。すると、私の体の反転に対応するように問題が逆さになった図が頭に浮かんだのです。

そして、「そうか、逆数にして両辺を積分すればいいんだ」ということに気がついたのです。アンリ・ポアンカレが楕円関数の問題が解けなくて、何週間も悩まされていました。田舎での講演旅行があり、馬車に乗ろうとして、右足か左足の1つをステップに載せたとき、楕円関数の問題を解くヒントを着想したといいます。そのときはもちろん、数学のことは全く考えていなかったということです。アンリ・ポアンカレは、これを無意識の思考と考えました。しかし、現代の認知科学は「楕円関数の構造」が「馬車に乗ろうとして、右足か左足の1つをステップに載せるという状況の構造」と同じであるから、解法を思いついたと、解釈しているそうです。これは私の体験とも合符合しています。

 

ルソーのエミールと右脳数学の結びつきを指摘されていることも驚異です。「どんな学問であれ、表象されている事物についての観念がなければ、表象している記号には、全く意味がない。それなのに、人々はいつも記号のみを子供に注意させて、決して記号の表象している事物を理解させるには至らない。子供に大地を描いて

見せようと思いながら、地図をよむことを教えるにすぎない。」

私も学生時代にエミールを2回読みましたが、これほど鮮やかに具体=内容の重要性を指摘していることは思いも寄りませんでした。そして、ルソーが指摘していることこそが現代数学教育の最大の問題点です。私が考えていることは、私の特殊な個人的な考え方ではなく、おそらくは誰でも感じていたことなのだと思います。YAHOO!JAPANに私のページが登録されてからアクセス数は飛躍的に伸び、それと共に激励のメールを送ってくれる方が増えました。多くの方が子供の頃から現在の数学教育に違和感を感じていて、その理由が、直観数学を読んで氷解した、と書いてくださっています。

 

 

 

 

4.  抽象と 具体、その間の 往復運動について

ハイデガーの哲学は、他のすべての哲学を括弧に入れた上で、展開されており、さらにその括弧の中の哲学が、具体を括弧に入れている。この構造が その 難解さの 理由のひとつなのではないか。抽象と具体の往復を 読者は二重に するようもとめられる、という点である。かれがデカルトに言及している場合でも、デカルト以外が同時に括弧に入れられている。

 

具体と普遍についての二分法の多層的重層構造的分析は、私はハイデガーよりむしろヘーゲルの弁証法を連想します。ヘーゲルの概念は悟性的(固定的)な概念ではなく、同じ普遍や具体でも、局面により姿を変えます。奥田さんの指摘なさっている入れ子構造です。「民法と商法は 一般法と 特別法の関係にあるが、商法とさらに証券取引法は 同じく 一般法と 特別法の関係にある。」普遍は具体であり、具体は普遍である・・・・ヘーゲルの分析は悟性的ではなく理性的分析です。形式は内容であり、内容は形式である・・・本質はいつも現象的であり、現象はいつも本質的である・・・ 

 

そして、ピカソの絵があるが、ピカソはあくまで具体物の形をもとに複数の部分を切り取って、ゲルニカの牛などの 部分的に抽象的な形を描いた( cubism )。ピカソの絵は、抽象と具体の両方を併せ持っているといえまいか。では ミロはどうか。モーツアルトのレクイエムは具体なのか抽象なのか、マルセル・デュシャンの 男性用便器=作品名「泉fountain 」1917 は具体か抽象か、そもそも抽象芸術とはなにか、など 考えは広がっていく。

しかしながら、事例がピカソなどの絵画における抽象と具体という話になっていくと、ヘーゲルではなくフッサールの生活世界やハイデガーの世界内存在またはメルロ・ポンティの現象学へ連なっているのではないか、と考えました。世界の構成=超越論的主観性による世界の意味づけ ピカソの絵画の世界は新しい重層的なシンボルの世界なのではないか。主観によって意味づけられた具体と抽象の混在する世界・・・ シンボルの重層的構造=メルロ・ポンティの行動の構造=ゲシュタルト そして最終的にはフッサールに遡行していく・・・生活世界の現象学 意味が沈殿し堆積する世界。

 

 「具体と抽象の往復運動による認識の深化」

 奥田さんがおっしゃるとおり、哲学者や思想家の言葉には、たくさんの具体がかっこ入れされて、発言されています。彼らの普遍には、多くの内容が凝縮されています。背景をもった哲学者の発言、これを理解するには、かなりの努力を必要とします。ハイデッガーの「存在と時間」には哲学史が凝縮されている。哲学の素養のないものが、「存在と時間」を読むとき、そこに実存の哲学を見るだけです。しかしながら、ハイデッガーが描こうとしている世界は、決して実存哲学ではなくて、存在論の歴史(哲学史)を現象学的に解体することなのです。ハイデッガーは、当代一流の哲学史家であったのです。彼の言葉に、数多くの哲学者の考えや範疇が反映されています。ヘーゲルの言う具体的普遍なのです。

 よく内在的理解とか追体験とか言われます。ですが、これは原理的には不可能なことです。なぜなら、本当の意味でヘーゲルやハイデッガーを理解しようとしたならば、すべての時代の哲学書を読み理解しなければならないからです。時代も背景も問題意識も違う人間が追体験などできるわけありません。

 理解とは何なのか。極端に言ってしまえば、我々にとっての理解でしかありません。これはハイデッガーやヘーゲルでも同じことでしょう。彼がいかに優れていたからと言って、2000年に渡る哲学をすべて理解しているわけはありません。

 といいましても、彼が我々の予想を上回るほど、哲学書をなめるように読んでいたことは否定することはできません。彼らの発言には深い含蓄があるのです。

 

 


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