第二論文 

右脳数学(直観数学)構想 を拝読して  2」を読んで

奥田さんの論文の感想です。

 

 

1.  時間 と 距離 と 速さ(等速運動) の 三位一体構造

と こどもの直観 

時間・距離・速さは三位一体をなしているというご意見に賛成です。三つは切り離すことのできない、関係概念です。それぞれが契機となって1つの構造をなしていると考えるべきですよね。だからこそ三つの契機を切り離し、速さ=道のり÷時間、道のり=速さ×時間、時間=道のり÷速さなどと覚えさせるのは、具の骨頂と言わなければならいと思います。

 

その後第二論文を読み、やはりニコニコマークは役に立たないのだな、と納得したが、さらに 速さ=距離÷時間 の式を何度か想起しているうちに、これはカントの空間と時間の割合ではないか、と気づき、人間の認識の基本に関わるのではないか、と思い始めた。このときは、時間と空間が基本的直観で、速さはその比として、あとから認識されるもの、時空の結節点 時空のなかで析出されてくる結晶のようなものであり、その点で二次的な概念ではないか、とまず考えた。

 

大変おもしろい発想ですね。時間と空間はカントにおいては、アプリオリな直観形式であるとされています。そして速さは、道のり(空間)と時間の比によって決定されます。とすれば、カントにとっても速さというのは、非常に基本的で大切な範疇であるはずです。

 

いかなる表現をしようと、厳然と存在し、直観される速さ。速さとは具体的なものから抽象化された割合ではない。

 

速さが抽象的なものではなく、直観的に把握できるものであるというのはまったくその通りだと思います。時間・空間がアプリオリな概念であるとすれば、同じく速さもアプリオリな概念であるはずです。チョムスキーの変形・生成文法ではありませんが、 人間が速さを把握できるのは、人間が生まれながらにして持っている能力=生成数学のよるのではないでしょうか。速さという概念は、カント的に言えば、我々の悟性に備わっているアプリオリな範疇である、と考えていいのではないでしょうか。だとすれば、現在の算数・数学教育の抜本的な問題はそのアプリオリな能力=生成数学を活性化させるのではなく、公式などによって教え込もうとしている点にあるのだといえないでしょうか。

 

 次に距離と時間を考察する。

 

A 距離、空間的延長、長さ、広さ、深さについて(以下、これらを単に「長さ」「距離」という言葉で代表させる)

B      時間について

 

私の理解する範囲では、奥田さんの認識によれば、空間と時間を考えた場合、空間は視覚によって第1次的に客観的に把握されるのに対して、時間は依拠するものは内面にしかなく曖昧であり、空間に投影することによって2次的にはじめて把握される直観であり、空間に投影する際に、決定的に重要な役割を果たすものが、等速運動である、というところでしょうか。この考察は、カントが空間も時間も感性のアプリオリな純粋形式であり、しかも時間の方がより根源的であると考えていた、のとは逆の結論ということになります。誤解でなければ、空間の方が根源的であり、それをもとにして第2次的に把握できる概念(直観)が時間である、とされているわけです。(しかも、時間把握は「脈拍 → 振り子  → 地球の自転  → クォーツ  → セシウム  → 水素メーザー時計」というように弁証法的な螺旋をなして深化していく、考えていらっしゃると思います。)この考え方は、物理的な時間を本来的な時間の退落態と考えるハイデッガーの考察とも違っているように思われます。

時間と空間ではどちらが根源的であるのか、については見解をもっていませんので、残念ながら私は論評することはできません。しかし、奥田さんの論文を読んでおもしろいと思った点は、空間(距離)の把握や時間の把握を反転させていることです。距離の観念を得るには、物差しによって計測するという経験が、時間の観念を得るには、時計による計測が必要というわけです。カントにとっては、時間も空間も感性のアプリオリな純粋形式であって、経験を全然必要としないものであったの対して、外界によって空間も時間も規定されている、と考えるわけです。時間と空間はアポステリオリである、というわけです。これはカントの逆コペルニクス的転回です。だから外界と直接結びつく空間の方がより根源的であると言うことでしょう。

時計が普及したことによって、時間観念が抜本的に変化したことは疑いがないことだと思います。江戸時代の人間にとっては、タイムテーブルという考え方はなかったのです。彼らは、日時計によって生活していたのです。日の出と共に起き、農作業に出て太陽が南中する頃に昼食をとり、日暮れをまって家路につき、就寝するという生活を送っていたのです。明治維新政府が進めた学校教育の重要な役割の1つは、タイムテーブル(時間割)を教え込むことであり、また、作業中に私語をさせないと、と言うことにあったのです。封建社会から資本主義社会に変換させていくための重要な鍵をなしていたのが、時間観念の形成であったわけです。これはライン生産者を形成していく上で不可欠なものです。

我々の空間観念も時間観念も徹底的に歴史的である、と言っていいと思います。我々の感性自体が歴史の産物なのです。「五感は、労働生産物である。」とはマルクスの指摘しているところです。我々の意識は、徹頭徹尾存在や歴史に規定されているのです。

物差しは小学校1年から与えられ、同じ計測手段である時計は高学年になって初めて与えられる、この違いが観念の取得にとって決定的大きいのは確かに議論の余地のないところだと思われます。

直観はアプリオリなのか、それともアポステリオリなのかでしょうか。直観の大部分は経験的直観です。少なくともカント以前の時代においては、直観は100%経験的であると思われていたのです。しかし、カントは直観の中には経験によらない純粋直観があるとしたのです。それが時間と空間です。

右脳数学・直観数学にとっても直観がアプリオリなのか、アポステリオリなのかは重要な論点であるといわざるを得ません。私の考えでは、速さの直観は基本的にはアプリオリです。つまり、人間が生まれながらにして持っている観念なのです。しかしながら、言語獲得能力が先天的なものであったとしても、言語を学ぶ環境がなければ言語を習得できないのと同様に、生まれながらにしてもっている能力を活性化させる環境がなければ、速さの観念を得ることはできません。つまり遺伝的な要素が規定的であるにしても、それを発現させる環境がなければ、速さの観念は獲得することはできません。柿の種は、水や酸素などの適切な環境がなければ、柿の木になることはありません。しかしながら肥料を変えたり、気温を変えたりして環境を変えても、桜の木にすることはできません。速さの観念もアプリオリな種に相当する能力があって、その能力を適切に鍛えることによって、発現されるのです。公式のよる指導は決して適切な指導でありません。むしろ公式による指導は、能力の発現をだめにしてしまう、阻害要因です。

 

西欧人が、神の作った世界は完全で数学的であると信じて探求した結果、本当にそのような物理的世界が現れた。

奥田さんのこの御指摘は、カントのコペルニクス的転回ですね。「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」わけです。数学的世界を外界に投げ入れるとき、そこに物理的世界が生まれるのです。この投げ入れによってこそ認識の普遍妥当性が保証され、アプリオリな総合認識が可能になるのです。物理的世界とは、人間の主観が構成した世界なのです。人間の対象的活動によって、作られた世界なのです。対象的活動とは、はじめから対象を予定する活動であり、また対象側は、活動を前提してこそ対象として成立するものなのです。客観的世界とは、実は主観によって構成された世界なのです。主観もそれ自体として、成立するものではなく、客観をはじめから前提し客観から規定されているのです。主観と客観は互いに前提しあい、相互に浸透しているのです。客観それ自体を考えることも、主観それ自体を考えることもまったく意味のないことです。物理的世界は、数学的世界を投入することによって成立するもので、決して客観それ自体ではあり得ないのです。主観と客観は、決して切り離すことのできない契機で、弁証法的に全体をなしているものなのです。これを切り離してしまうとき、不可知論に陥るのです。

 

A 三位一体構造  3者の相互関係の複合構造融合的構造について

  私も三位一体の一例を示してみたいと思います。それは夢です。夢見ている人は、無から夢の世界を作り出した人で、まさに神です。夢の中では自分も登場します。神がイエス・キリストになって登場したように、自分が創造した世界の中に受肉した自分が現れるのです。他の登場人物や背景も神である自分が創造したものです。夢見る人・登場人物としての自分・背景や他の人物は、まさに三位一体をなしているのです。

  ヘーゲルの精神現象学で出てくる当事主体と神たる学知者の関係も、夢に登場する自分と夢見る人との関係と同一です。はじめ当事主体は、対象と意識は隔離されており、有限な認識しか持っていません。しかしながら、学知者たる神の狡知によって、導かれ次第に認識を高めていきます。やがては対象と意識(これは客観と主観と言い換えてもいいものです。)は一致し当事主体は、絶対的な認識を得て学知者と同一者になります。当事主体は、神になるのです。ヘーゲルの精神現象学自体が三位一体構造をなしているのです。ヘーゲル哲学が、キリスト教の哲学化といわれる所以です。

  私は、前々からキリスト教やヘーゲルの三位一体構造は実は夢から発想を得ているのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。奥田さん見解がありましたら是非とも返事をいただければと思います。

Aは、第二論文に言及のある、論理学で重要な「必要十分条件」が数学の中でのみ扱われており、たとえば国語や社会、物理、化学などで 明示的に扱われることがまれであること。学問の専門分化のみが進み、大元の哲学教育がないため、もとは一つであるにもかかわらずばらばらに 教えられており、そもそももとは一つであったことすらわからなくなっていること。

  このご意見にも全面的に賛成です。論理は本当は、国語や社会などでも教えられるべきものなのに数学だけが論理を扱っています。哲学がない、それぞれがバラバラに教えられている、有機的に関連しあっている教科科目が切り離されてしまっている、理系と文系に分けられてしまっている、これらが問題の源泉です。本来の姿は、国語教育は数学教育であり、数学教育は国語教育なのです。それなのに文系の能力と理系の能力はあたかも別物であるように、場合によっては負の相関関係があるかのように、イメージされています。そして早い内から、文系とか理系に分けられてしまう、これは不幸としかいいようがありません。大人が教え込まなければ、子供は決して文系理系のイメージは持ちません。子供たちは、人間の能力が単純に理系と文系に分けられるものではないことを知っているからです。子供たちがもっている考え方は、「頭がいい」かそうでないかです。つまり専門分化されておらず、総合的に考えているのです。子供たちにとって「頭がいい子」は、算数も国語もできる生徒なのです。それなのに大人はあるいは先生は、小学生高学年の頃から理系と文系は別のものであると教え込んでしまうのです。そして、あなたは文系だねとか理系だねと決めつけ、子供たちも誤ったイメージを持つようになってしまうのです。奥田さんの第1論文についての感想の中で書きましたが、ヨーロッパにおいては、哲学者は数学がばりばりであり、数学者も哲学に長けている人が多いのに、日本においては数学の能力に長けている哲学者は少ないのが現状だと思われます。早い内から文系理系に分けられてしまうことが、その原因なのではないでしょうか。人間の能力は、文系・理系にステレオタイプに分離ができるものではありません。文系・理系の概念装置あるいは受験制度が、諸問題の源泉なのではないでしょうか。奥田さんがおっしゃる通り、教育の総合化が必要であると思われます。

  私は、右脳数学(直観数学)構想を書いた後、実は右脳的な立場からの指導は、数学にのみに限定されるべきではなく、全教科に及ぶのではないかと考えるようになっていました。奥田さんのご指摘を読み、その考えは確信に変わりました。数学教育に携わる方だけでなく、他教科の方からも賛同者が現れることを祈念しています。

 


上にメニューが示されてない場合は、下のロゴ右脳数学(直観数学)またはURLをクッリク!


http://www5b.biglobe.ne.jp/~suugaku/