以下の原稿は、後書きにもあるとおり何の準備もせずに、記憶だけに頼り
仕事をしながら、たった二日で書き上げたものである。
いわば、社会科学についての方法についての即興講義である。
いろいろな書を改めて参照せずに記憶だけ書いたものなので、
記憶違いも多々あるかと思う。
いくつかの間違いについてはアドリブ講義と言うことでお許しいただければ幸いである。

社会科学の方法についての概論(即興講義)
はじめに
 高専で機械工学を専攻し大学では物理学を専攻して、現在数学と情報を担当している私が、『社会科学の方法』というテーマを論じようとしていることに対して、違和感を覚える方もいらっしゃるのではないだろうか。しかし、学生時代から今まで私の主たる関心領域は、社会科学と人文科学であり、政治学・法学・社会学・文化人類学・心理学・言語学などに興味を持ち、小説を除けば読書のほとんどの時間をこれらの書に費やしてきた。教員採用試験も実は、最初に受けたのは社会科である。ただ、教員になろうと考えた時点ですでに30才を超えていたので、暗記教科で合格を勝ち取るのは無理と判断し、数学へと変更したのである。もし、私の数学教育論が少しユニークであったとしても、これらのバックボーンなしには二つの出版社から一般書籍の執筆依頼はなかったであろう。もっとも、出版社の編集者を私に近づけるのは哲学的バックグランドであるが、皮肉にも出版社の営業部が私を遠ざけるのも同じ哲学である。私の著書は難解であると言うことで、営業部に反対され出版社Aにおいても出版社Bにおいても、幻の名著は出版されないことになってしまった。特に大手出版社Aにおいては、編集部から高く評価され一番上の社長会議まで行ったのにも関わらずである。
 文系諸領域の中で特に関心を寄せた領域は、経済学と哲学であった。したがって、経済学と哲学の交差する『社会科学の方法』に問題意識が収斂していくのはある意味当然であった。
 社会科学の方法を論じる際には、『マルクス経済学の方法』と『ウェーバー社会学の方法』の問題は避けては通ることができないであろう。政治学については、20世紀になってもカール・マンハイムが『政治学は科学としていて成立しうるか』という論文を書いているほどであるから、科学として成立しているかどうかは未だに議論のあるところであろう。また、新自由主義などもリーマンショックによる経済危機で、破綻が言われている。そもそも、近代経済学が現象の本質を研究しないで、質を捨象した数量的分析のみに終始してきたことを考えれば、近代経済学は学問の名に値しないであろう。物理学帝国の植民地に甘んじている近代経済学は学の模範とはいえない。やはり、諸々の社会科学の中で、学として方法が確立していると評価が高いものは、なんと言ってもマルクス経済学とウェーバー社会学である、とってよいだろう。
 私の問題意識の要点を述べておけば、主観と客観の問題である。社会科学が自然科学と決定的に違っている点は、この問題を避けては通ることができないことである。なぜなら、社会とは意識=主観をもった存在の営みであるからである。対象側の分析にのみ焦点を当てることができる自然科学とは違い、社会科学の場合には対象をどのように意識が捕らえているが問題なる。物理的対象には意識がないのに対して、社会科学が対象とする人には意識がある。人間の行動は、人間が対象をあるいは社会をどのように認識しているかによって影響を受ける、というより決定されている。人間を動かす原理を、客観のみに求めることはできない。主観の働きを無視することができないからである。だが、主観的観念論のように主観のみを分析していけば、真理にとたどり着けるという考えも同様に間違いである。主観をもった存在でありながら、フロイトの精神分析を例に挙げるまでもなく、人間が客観に支配されていることも疑いのない事実である。人生とは、意のままにならないものである。自分の思いで、物事は片づかない。どうにもならない必然性あるいは運命によって支配されている。
 マルクスもウェーバーも、『対象と意識』/『客観と主観』の関係を巧みに分析することによって、社会科学の方法を確立したのである。だがマルクスの解釈においては、この自明な事実が、等閑にされてきたのではないだろうか。マルクスの唯物論に対する誤解が主因である。不幸は、資本論が主にヘーゲルの論理学との関連で読まれてきたことにある。なぜ、主観と客観の関係を論じた精神現象学との関連で読まれてこなかったのであろうか。精神現象学との関連に思いを寄せれば、『ただ物論』というような曲解はあり得なかったはずである。『存在が意識を規定する』というテーゼがいかに深い内容を含んでいたかが、理解されたはずなのである。結論を先取りしていってしまえば、主観と客観のダイナミックにして弁証法的な関係をより深く理解し、洞察していた人はウェーバーでなく、マルクスである。本論文の課題は、この結論を証明することにある。
 
大塚久雄氏による『マルクス経済学の方法とウェーバー社会学の方法』理解
 新書であるが、マルクス経済学の方法とウェーバー社会学の方法の2つをテーマとする非常に評価の高い本がある。大塚久雄氏の『社会科学の方法』である。この本が名著であることは、どんな立場にあっても異論を差し挟む者はいないであろう。というわけで、本稿ではこの書を話のとりかかりとして、論を進めていくことにしよう。
 氏の理解したマルクス経済学の方法とウェーバー社会学の方法について述べてみよう。まず、氏のマルクス理解から。氏の理解によれば、社会を構成する個々人は確かに自分の意識や目的を持って行動している。常に何らかの動機をもって、動いているのである。市民は、自己の意志を持ち自由に行動しているように見える。しかし、個人が集合するとき新しい様相を提示してくる。氏は、次のような具体例でそれを説明する。
 自分のうちに帰省しようとする者がいる。ところが、花火大会があり人々は逆方向に向かっている。大群が反対方向に動くとき、帰省者は思うように行動できない。自分が進みたいと思っている方向とは、逆に流されてしまう。どうにもならない群衆の動きが、自己の意志から離れ、あたかも物に重力が働くように、人に大きな力が働く。自由な意志を持った存在が、必然性によって支配されてしまう。そして、大塚氏は個人の意識から離れて自立的・自律的に運動する現象を、マルクスは疎外と名付けていたとするのである。
 経済も全体でみると、同様であると氏は説明する。個々人は、自分の意志と認識をもって行動していても、それらが集合するとき、自立的な主体となり社会は自然史的な過程を辿ることになる。個々にはさまざまな向きをもったベクトルであるにして、全体に合成されるとき、ある定められた方向をもつ大きなベクトルになる。社会は、第2の自然となりここに因果論的な把握が可能となる原理がある。経済が自立的・自律的な運動体となったので、自然科学的な分析が可能になったとするのである。
 そして、マルクスやエンゲルスは疎外現象を克服する処方箋も書いたとする。先の花火大会を例に次のような説明をする。もし、丘の上から群衆の流れを観察することができれば、群衆がどの方向に動いていくかが客観的に把握できる。つまり、客観的運動法則を認識することによって、自己の意志とは反対方向に流されなくても済むとするのである。客観的運動法則に自分を委ねれば、摩擦なくスムーズに流れる。社会全体についても、運動法則を掴めば、客体となった社会の運動に流されることなく、主体的に行動できるとするのである。
 この説明に、読者は疑問を持たれるであろう。必然性を認識して、運命だとしてそれに従っているだけで、少しも主体的に行動していないのではないかと。まったく、当然の疑問であろう。私は、もう一つの根本的な疑問を加えておきたいと思う。それは、果たしてマルクスが、現象の流れから離れ丘の上に立ち全体を俯瞰したのであろうか、という点である。もしこれが本当なら、マルクスは弁証法を自分の方法として使う必要があったであろうか。流されながら流れつつ、この流れを質的に変更するための方法を、マルクスやエンゲルスは模索してのではなかったのか。彼らは、観照を事とした単なる理論家ではあり得ない。革命を指導した、実践家なのである。実践のさなかにあるとき、丘の上から川の流れをテーオーリアに分析することはできない。実践とは、常に予見できない展開を見せ、常に臨機応変に対応しなければならないものだからである。
 しかし、これらの根本的な疑問は、一旦は置いて論を先に進めることにしよう。なぜなら結論の先取りになってしまうからである。行論の進行が、この疑問に答えるからである。大塚の氏の理解するウェーバー社会学の方法をみてみることにしよう。
 氏は、ウェーバーの方法は『目的論の因果的組み換え』であると説明する。簡単言えば、動機まで考察対象に入れることによって、マルクスの自然史的分析より深い考察ができる、というのである。近代自然科学が科学として成立したのは、アリストテレスの目的論的理解から因果論的な理解に転換したからではなかったのか。社会科学に目的論的要因を、混入することは、アリストテレスへの後退ではないか。氏はそうではないと考えるのである。氏の解答は、目的論的理解の因果論的理解への組み換えであるというものである。
 ここで、読者のために少し解説しておこう。アリストテレスの目的論的理解とは、アリストテレスが自然を理解するときにとった立場である。例えば、石を手から離せば落ちていく。これは、石には下に行きたいという意志すなわち目的があるからと考えるのが、アリストテレスの目的論的理解である。それに対して、因果論的理解とは近代自然科学がとる方法で、目的と結果ではなく、原因と結果から物事を分析する立場である。石には、意識や目的はなく、重力が原因となって石が落ちていった、と考える。
 アリストテレスが目的論的理解をした背景は、形而上学の問題がある。神や存在の本質などを問う学問を形而上学といい、今で言えば自然科学的な領域は、形而下学と言われる。
存在論や神の問題を、より高級で一段上の問題であると考えていたので、形而上学と形而下学の違いがあるのである。すべての存在者をつくったのは神である。造る以前に、神には存在者のイメージがあった。つまり、目的があってそれに添う形で、存在者が形成されたのである。形而下学の対象である存在者の世界も、神に似た世界であり存在者にも行動を行う前に、結果のイメージ=目的があったはず、というのがおそらくアリストテレスの考えである。
 このアリストテレスの目的論的理解が、近代自然科学の成立を阻んできたのは疑いのないことであろう。アリストテレスは、学の方法を考察して学の進展に貢献すると同時に、学の発展にてっての桎梏でもあったのである。
 ウェーバーの社会学の方法が、アリストテレスへの後退でない理由は、規則性という因果論的把握を基礎として、そこに動機を加えるからである。つまり、目的論的理解の因果論的理解への組み替えとは、観察する規則的な現象を動機を考慮に入れながら追体験することなのである。
 動機まで考察の対象に入れることによって、より緻密な理解が可能になったとウェーバーは考えていたと大塚氏は言う。マルクスが外側からしか物事を理解していなかったのに対して、目的という動機を考察対象にしたため、外側と同時に内側言い換えれば客観と主観も理解の対象にしたと考えるからである。
 まとめるとマルクス経済学は、疎外によって社会が人間の意識から独立し自立したから、自然科学的な分析方法である因果論的な分析が可能となった。社会が第2の自然となったから、自然科学的な運動法則の解明が可能になった。それに対して、ウェーバー社会学の方は、目的論的理解を因果論的理解に組み換えることによって、対象を外と内からつまり客観と主観の両側面から分析できるようになり、より精緻にして深い分析が可能となった、これが大塚氏のウェーバー理解である。マルクス理解については、疎外論に対する誤解、弁証法へ理解不足、資本論における精神現象学の役割を把握していないなど様々な問題点が、本稿の進展とともに明らかになって行くであろう。
 
資本論の課題
 ここで資本論の任務が何であったか、振り返ってみよう。資本論の課題は、近代市民社会の経済的運動法則を解明することであった。近代市民社会とそれ以前の社会では、何が異なっているだろうか。原始共産制社会は、搾取のない世界で本当の意味で究極の民主的社会であった。民主的という意味を平等と意味にとれば。そして、マルクスが目指す高度共産主義とは、真に平等で真に自由な社会であり、究極の民主主義社会である。共産主義や社会主義社会を全体主義であるかのように描く俗論があるが、マルクスの考えとは正反対である。マルクスやエンゲルスが希ったものは、人類の解放である。
 ウェーバーは、資本主義社会であろうと、社会主義社会であろうと官僚制によって人間が疎外されているので、共産主義になっても問題は解決しないとしたが、後期マルクスは前期のような意味では、一度たりとも疎外の言葉を使っていないとされる。もちろん、疎外はヘーゲルの外化を発展させたカテゴリーで前期マルクスの主要にして鍵概念である。物象化が疎外と同じものであるといろいろな論者が考えているが、なぜマルクスがかつての範疇を使わなくなったのかという主要な問いに答えていない。
 人類の解放とは、人間が人間の主人公になることである。人間が人間の自由な主体となることである。自分のために生きることと他人のために生きることが区別されない。原始共産制社会では、労働は家族内で分業されており各自が能力に応じて働き、必要に応じて受け取っていた。「お父さんの方が、いっぱい働いたからお父さんの方が取り分多くもらうよ」などとは考えない。子供や妻がおなかを減らしていれば、自分の取り分を抑えたであろう。すべての労働は、家族のために他人のためになされる。資本主義的なエゴイズムは存在し得ない。他者のために労働することと自分のために労働することが区別されない。愛する者のために働くのである。
 高度共産主義社会においては、各人が各人の自由のために働く。支配や疎外現象はない。なぜなら、主体と客体が一致し、社会を自分のもととして制御するすべをもった社会であるからである。『自由とは必然性である』というヘーゲルの言葉は、『自由とは必然性の認識である』と言い換えられる。人間が本当の自由を得るのである。
 高度共産主義社会では、人間は全面的に開花する。高度共産主義社会では、チャップリンがモダンタイムスで描くような、オートメーションで縛られた分業は存在しないからである。高度共産主義社会では、職業も固定されない。午前中と午後で仕事を変えてもいいし、数年単位で仕事を変えてもいい。例えば、午前中は教育に携わり、午後は執筆に専念する。数年後には、午前中はコンピュータの開発に携わり、午後は介護の仕事をするなど。
国家の官吏の仕事は、基本的には自治会の役員と同じで、輪番制である。したがって、権力は存在しなくなる。すべての人が自由であり、全面的に能力を開花させる社会が高度共産主義なのである。全面的に能力を開花されているので、難しい官吏の仕事もこなせるのである。
 話が脱線したので、もとに戻そう。古代奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会に共通する属性は、搾取社会である。奴隷制社会は、丸ごと搾取されているのに見え、資本主義社会では搾取がないように現象しているが、本質は労働の一部(といっても半分以上であるが)の搾取である点で共通している。
 古代奴隷制社会と封建制社会の労働搾取は、目に見えて明らかである。奴隷は主人のために働き、農奴は封建領主のために働く。農奴は、年貢などの生産物地代で搾取され、1年内の一定期間は領主内でただ働きされる。赤裸々な搾取であるため、2つの社会においては経済学外的強制=経済外的装置を必要とした。強大な軍事力、王権神授説のようなイデオロギー、宗教などの経済外的強制をもってして社会を維持していた。
 しかし、資本主義社会はどうであろうか。資本主義社会は、大塚氏の言うとおり経済が自立・自律して、上部構造から独立した。あたかも第2の自然のように、自己内の運動法則をもち、上部構造からの干渉を一切必要としない。少なくともアダム・スミスやカール・マルクスが生きていた頃のイギリスは。だから、政治は経済に介入すべきではないとする夜警国家論が生まれたのである。そして、リーマンショックによって破綻したとされる新自由主義も同じ考え方をしている。政治が経済に介入せず、市場機構に委ねれば経済は予定調和的に発展していく、と考えている。市場メカニズム万能主義である。
 なぜ、資本主義においては経済外的強制=経済外的装置を必要としないのであろうか。それを解明することこそが、資本論の課題なのである。なぜ、資本主義社会において搾取は見えないのか、そのメカニズムを明らかにすることが資本論の重要な任務であり、課題なのである。経済の運動法則の解明によって、搾取の隠蔽の謎を解き明かすことこそが資本論の終局的な目的の1つなのである。
 資本論は、この課題を実現するために商品の分析から始めている。資本主義的社会においては、富は巨大なる商品集積として現れ、個々の商品はその成素形態であるからである。商品たる細胞によって、資本総体=冨総体が構成されている。だから、細胞たるすなわち冨の構成要素たる商品を分析しなければならないというわけである。
 資本論第1章商品論の展開をしばらく追ってみよう。まず、マルクスは資本論第1章第1節において、商品の性質を研究する。商品は第1に使用価値であるという。上着なら着るという使用目的のために作られる。使用のための価値=使用価値である。そして、マルクスは商品の第2の特性は、交換価値であるという。交換のための価値=交換価値である。上着には、使用を目的とした使用価値と、交換を目的とした交換価値の2つの価値がある。2つの価値の統一として、上着がある。
 マルクスは第2節において、それぞれの価値を作る労働の側面から考察を進める。マルクスは、使用価値を作る労働を具体的有用労働と呼ぶ。そして、価値(交換価値)作る労働との違いは何か、と問題にする。例えば、上着は亜麻布と交換される。交換される以上使用価値が違っていようとそこには共通な属性があるはずである。そして、共通な属性として価値を導く。この価値を作る労働は何であろうか。上着を作る労働、亜麻布を作る労働、その他の生産物を生産する労働などから具体的有用性を捨象するとき、すべての労働にも共通している属性として、抽象的人間労働が抽出される。こうして価値を形成する労働の実体が明らかにされる。注意深い読者なら、商品論第2節においてすでに大きな謎が提出されていることを見逃さないであろう。
 上着労働や亜麻布労働に共通な属性はあることは、ごくふつうの頭をもっていればわかる。なぜなら、個々の家がいろいろな形をしていたり、煉瓦や木材など様々な素材で作られたりしているにしても、住む所という共通の普遍性を導き出すことは誰にもできるように、具体的有用労働から抽象的人間労働を抽出することは困難ではないからである。
 抽象的人間労働の側面がないなら、計画経済など最初から空想の産物である。というより、いかなる人間社会も成り立たない。社会成立のための条件は、社会的総労働が成立して配分が機能することである。生活必需品などの社会生活に必要な生産物を生産するのに、適宜に社会的総労働が各生産部門に配分されていなければならない。原始共産制社会・古代奴隷制社会・封建制社会・資本主義的社会・社会主義社会のいずれも関わらずにである。抽象的であるためにいかなる生産部門にも配置可能なのである。上着労働のみしかできない人間はいない。人間は、いかなる生産部門に配置されてもある程度は適応可能である。
 確かに、封建制社会においては職業が固定され、労働は特殊な労働に特化している。靴職人は、靴職人になることが定められている。職業の自由が確保されるのは近代市民社会になってからである。そして、近代ブルジョワ社会においては経済の流動性に対応するためと生産性を高めるために近代公教育が行われ、基礎学力の養成が行われた。したがって、明らかに資本主義における労働者の方がどの生産部門にも対応できる汎用性を持っていることは事実である。しかし、封建制社会や古代奴隷制社会に住んでいた人たちにも、もし教育の機会が与えられたなら、どの種の労働部門にも対応できる抽象性=普遍性をもった労働者になったであろう。生理学的素材としてはどの時代も共通の人間なのである。
 ここに大きな謎がある。なぜ資本主義社会の労働者だけが、これがいいすぎであるとすれば商品生産者だけが、価値を形成するのかという謎である。農奴が生産する農業生産物は、基本的には商品にならない。自家消費されるか、封建領主から搾取される。余剰生産物だけが商品となったのである。自家消費されるか、搾取される生産物自体は使用価値を持っていても、交換価値あるいはその本質としての価値は持っていない。したがって、農奴は基本的には、価値を生産しない。また、奴隷もあきらかに使用価値は生産するが、価値は生産しない。抽象的人間労働という意味では、商品生産者の労働と同一なのに、奴隷と農奴の労働はなぜに、価値を形成しないのであろうか。逆に言えば、なぜに商品生産者ないしは資本主義における生産者は、価値を生産することができるのであろうか。
 
唯物論と観念論
 資本論第1章の研究途上であるが、マルクスの『唯物論』を『ただ物論』に解釈する見方がなぜ出てきたのかという話題に変えたい。私は、大塚久雄氏の『社会科学の方法』を大変高く評価している。だから、黒磯南高校生が読むべき50冊の中に、この本を推薦したのである。大塚史学の形成者にして、文化勲章受章者である氏の論実は平易な語り口でありながら、深い内容をもっている。であるが結局は、氏の見方も『ただ物論』であるといわざるを得ない。マルクスの方法を自然史的方法とらえる点において。
 ここでも、哲学に不案内の読者のために唯物論と観念論について、簡単に解説しておこう。哲学は、その始まりから唯物論と観念論の対立であったといってよい。この二つの立場の違いは、どちらを第一実体と考えるかにある。唯物論は、意識から独立の物質こそが根源であって、意識はその派生にすぎないと考える。素朴実在論の立場に立てば、意識とは結局は物質の化学電気的反応にすぎない。この立場は、普通の人と自然科学に従事している人のほとんどが信じている考えである。場合によっては、この考えを『ただ物論』と呼び、専門的哲学的研究者が俗論として退ける立場である。高級な立場にせよ、物事の第一実体=第一根源は、意識とは独立な物質であるとするのが唯物論(正しくは、ユイブツロンと読む。)である。
 それに対して、観念論は始原=根源(ギリシャ語でアルケーという。)を観念に求める。わかりやすく言えば、意識に求める。すべては観念=意識から構成されていると考える。素朴実在論の立場からすれば、わかりにくい考え方である。誰でも素朴には、意識の外にある対象の存在は疑わないからである。物自体があり、我々の感覚器官を刺激して、その物自体を認識するとするのが多くの人の見解だからである。ところが、観念論においては、物質は意識の派生物であるとされる。つまり、意識が物質を構成する。わかりやすいアナロジーは、神による世界の創造である。神の意識が世界を創造する。
 素朴実在論の立場からばかげて見える考え方も、論破するとなるとかなり難しい。簡単な問題なら2000年以上哲学者たちが論争してきているわけがない。我々は素朴に、意識の外に物自体が存在していると思っている。だが、冷静に考えてみれば我々が知っているのは、意識に現れた現象だけで、物自体を直に知っているわけではない。物自体から受けた刺激によって、我々の感官=五官が形成したあるいは構成した現象以外、我々は見たことがないのである。見たことがあると言う表現自体すでに、視覚の存在を前提している。我々の五官にとっても最も重要であり、使う頻度が高いので認識には視覚のイメージが使われることが多いのである。我々が直接見ているものは、意識でしかない。物自体や物質とは、その意識内現象から推論されたものにすぎない。とすれば、物自体や物質の方が意識の派生態であるという考え方にも理があると言うことになる。
 「そんな馬鹿な」と思う方も、いらっしゃるに違いない。しかし、よく考えて欲しい。例えば、カーテンの色とは何であろうか。白いカーテンも赤い色眼鏡をしていれば、赤く見えるだろう。また、自然光で見るのか白色蛍光灯の下で見るのか、それとも電灯の中で見るのかによって、カーテンの色は違って見える。どれが正しい色なのであろうか。そもそも我々の感覚自体が色眼鏡や偏向メガネでないという保証はどこにもないであろう。
 我々の見え方とチンパンジーの見え方が違うと言うことが、京都大学霊長類研究所の研究によって明らかになってきている。有名なアイちゃんの研究である。そんな特殊な例を出さなくても、文化人類学が明らかにした知見によれば、使用言語が違えば色の見え方さえ違っていることが明らかになっている。日本人は、虹を見て7色の色を見る。ところが、言語体系が違えば、3色にしか感じない未開社会の人もいれば、8色に感じる人もいるのである。かつては確かに高度な悟性や理性の部分では、民族が違えば異なるかもしれないが、少なくも感性の部分は同一であると信じられてきた。ところが、その感性さえ異なっている。とすれば、どの民族の見方あるいどの動物の見方のどれが正しいのであろうか。
 結局我々が見ているものは、対象の意識への現れでしかない。だからこそ、カントは我々にとって認識可能であるものは、現象にすぎず、物自体の認識は不可能であるとしたのである。あるいはデカルトにおいてもっとも確実なものは、ゴギトすなわち自己意識であるとされたのである。意識は、直接に現前しているからだ。
 近代以降の哲学の歴史を簡単に概観するなら、大陸合理論とイギリス経験論に2分される。大陸合理論とは、デカルトに始まり、ヘーゲルにおいて極限に達する立場である。デカルトは、方法的懐疑によって絶対に疑うことのできない学を構築しようとした。不可擬の学を構築するため、あるいは無仮定の真理を見いだすために、すべてに疑いを掛ける。「私がここにいる」と言うこともひょっとしたら夢かもしれないのである。若いときは、絶対に確実で疑うことのできない学であり学の模範と考えていた数学でさえ悪魔が欺かせるかもしれないと言うことで、デカルトは確実性を疑ってみる。そして、すべてを疑った末に、疑う存在である我の存在は疑うことはできないという結論に達したのである。これが有名な『コギト エルゴ スム』である。すなわち、『我思う、故に我あり』である。つまり、すべてを疑っている我の存在自体はどうしても疑うことができない。存在しなければ、疑うこともできないからだ。こうして、デカルトは絶対に確実な存在として、我=コギト=意識を獲得する。一方で、我は身体を持っている。そこで、デカルトは意識と独立な延長の存在を認めざるを得なくなる。こうして近代哲学は、意識と延長、あるいは意識と物質の2元論によって始まった。しかし、この2元論によってなぜ意識と身体が連動するのか、共作用するのかが、解けないアポリアとして残った。意識と延長は2つの実体であるが、この2つがどうして関係することができるのかが、難問として残った。2つに裁断してしまった後では、その関係を考えるのは難しい。実体とは、自己の中に存在の根拠を持ち、独立して他を必要としないからである。
 イギリスでは、ホッブスから経験論が始まる。認識の根源は、すべて経験にあるとする立場である。我々は、タブララサつまり白紙で経験によってすべてが書き込まれていくと、ホッブスは考えた。イギリス経験論は、ジョン・ロック、ジョージ・バークレイと受け継がれていく。イギリス経験論は、経験に認識の端緒を求めるので、唯物論の起源となったが、バークレイにおいて、主観的観念論の極限に達する。バークレイの立場によれば、すべては感覚である。物自体など存在しない。物が存在するのは、私が感覚しているからである。では、誰も見ていない木は存在しないのか。この問に対して、いいや常に神が見ているから誰も見ていなくても存在していると答える。つまり、感覚以外存在しない。物事は、感覚複合であると、後にマッハは言うことになる。
 一切のアプリオリ(経験以前のもの)を認めないデイヴィッド・ヒュームにおいて、イギリス経験論は一つの極点に達する。因果関係などの観念も結局は、経験の束にすぎないものであり、アプリオリにして絶対の存在ではあり得ない。これらや客観的と思われている認識は、単に習慣に基づくものにすぎない、とヒュームは考えることによって、ヒュームは近代懐疑論への道を開いたのである。必然的認識は不可能で、例えば、ものが落ちるという現象も我々が経験した範囲内ではそうだと言うだけで、結局は蓋然的認識でしかないというわけだ。
 学の確実性を信じていたカントは、ヒュームを読み独断の微睡みから覚まされることになる。我々の認識は、主観の習慣にすぎないとすれば、不可知論すなわち懐疑論はどのようにして克服可能であろうか。これがカントの問題意識であった。そして、カントの解決は、有名な『コペルニクス的転回』であった。つまり、普遍性や必然性や『原因と結果』のような認識を可能にするカテゴリーは、対象自体にあるのではなく、我々の主観にアプリオリ(経験以前的=先天的)に備わっている形式であるとしたのである。認識の客観性を保証するものは、対象にあるのではなく、我々の主観の側にあるとする。対象側に客観性があると考えていたのに対して、主観側に客観性があるとすることによってアポリアを解決したのが、コペルニクス的転回なのである。つまり、『認識が対象に規定されるのではなく、対象が認識に規定される』(純粋理性批判)のである。つまり、我々の認識は対象に我々に先天的に備わっている形式を投げ入れることによって、必然的に認識される自然となる。
 ヘーゲルは、後に客観の2重化と呼ぶ。従来の主観=客観、認識と物自体の2項に加えて、主観自体を主観と客観に分けたとする。しかし、結局は物自体の認識は不可能とすることによって、カントは懐疑論を克服できなかったと批判する。
 ヘーゲルは、カントの功績を認識に入る前に、認識能力を吟味したことであるとする。そして、それと同時にカントの認識論は、『水に入る前に、泳ぎを練習した』として批判する。ヘーゲルによれば、認識批判は認識しながらでなければ不可能で、認識前の認識は不可能なのである。だからこそ、認識論=哲学には弁証法が必要なのである。
 大塚久雄氏の誤りの一つが明確であろう。認識批判は、認識しながらでなければ不可能である。実践も、流れの外からそれを眺めテーオーリアに分析することなどできない。流れの外にいながら、流れを認識することなど思い上がりもいいところである。我々は、認識しながらしか認識できない。我々は、川流の渦中の中でしか、流れを認識することはできないのである。
 カントは、不可知論=懐疑論を克服しようとした。それは、主観・客観の2重化によってである。だが、結局物自体は認識不可能であるとしたことによって、不可知論を克服できなかった。実は、懐疑論は主観・客観という枠組み自体に根があるのではないかと言うのが、ヘーゲル以降の哲学者の問題意識なのである。つまり、すべての問題の根源は、デカルト以降の主客図式にあるのではないだろうか、ということである。
 そして、ヘーゲルは2元論の克服に専念するのである。ヘーゲルの解答は、主客の弁証法である。そして、その問題に焦点を当てた著書こそが『精神現象学』なのである。『精神現象学』は、意識と対象が分離している状態から始まり、対象が意識になり意識が対象になり、意識と対象は相互連関しながら運動する。初めに対象が問題になるが、よく考えてみれば、対象を意識している意識が次に対象になる。つまり、対象の意識をメタレベルで対象にする。ここにヘーゲルの弁証法の特徴がある。後に詳しく述べることになるが、メタレベルの考察という視点なくして、弁証法は何かという問に答えることはできない。結論を先回りしてしまえば、従来は見落とされてきたが資本論でも至る所で使われている考え方=方法なのである。
 また、このメタレベルという考え方は、現代論理学がとる主要な考え方である。例を挙げて説明しよう。クレタ人の嘘という有名なパラドックスがある。それは、次の命題である。『すべてのクレタ人は、いつでも嘘を言う』とクレタ人が言ったとするとどうなるであろうか。すべてのクレタ人はいつでも嘘を言うのだから、これを言った人も嘘を言っていることになる。とすれば、命題『すべてのクレタ人は、いつでも嘘を言う』自身が嘘と言うことになり、クレタ人は本当のことも言うことになってしまう。だが、本当だとすれば命題『すべてのクレタ人は、いつでも嘘を言う』が真となってしまい、また主張が偽でなければならない。つまり、真であるとすれば偽で、偽であるとすれば真である、という無限連鎖の深刻なパラドックスが起きてしまう。
 これに対して、現代論理学は次のようにしてアポリアを解決する。それは、自己言及の禁止である。命題『すべてのクレタ人は、いつでも嘘を言う』は、対象について言っているのであって、それを語る主体=主観については言ってはいない、というのが解決法である。つまり、この命題を語った人以外のクレタ人について言った命題であり、言った人に対しては何の判断も下していない、と言うわけである。自己言及の禁止とは、命題は対象に対して物事を言ったり判断したりしてもいいが、命題を主張する人に対しては、言及することを禁止するというものである。言い方を変えれば、対象レベルとメタレベルを明確に区別すると言うことである。対象のレベルと、対象について語る命題自体を対象にするレベルを区別して、メタレベルについては語ってはいけないとするわけだ。
 次のようなクイズに、先生方は答えられるであろうか。黒磯南高校のある1年生のクラスで、『成績優秀な小学5年生のA子さんがいました。ところが、算数のテストで0点を取ってしまいました。とっても恥ずかしいと思っていたので、誰にも言わず秘密にしていたのですが、あるとき突然約40名の人がそれを知ってしまいました。どうしてでしょうか。』と言うクイズを出したとする。ノーヒントならほとんどの生徒が答えることができないし、先生方も答えられないであろう。本当は、ここで10分程度先生方にも考えて欲しいところであるが、答えを示唆しておけば、このクイズのおもしろさ/難しさは自己言及の禁止の原則を破っていることなのである。つまり自己言及禁止は、現代論理学者でなくても誰でも知っていることなのである。物語と物語を語っている人は、別世界である。これが、物語の基本原則だ。物語が対象レベル、物語を語っている人を対象にするのがメタレベルである。
 ヘーゲルは意識と対象の弁証法的運動を説いた。初めのうちは、一致していなかった意識と対象は、運動の終点において意識と対象の一致した絶対知となるのである。そして、記述の方法として大変大切な点は、この絶対知にたどり着いた哲学的観察者が当事主体の運動を観察して述べているという点である。精神現象学には2つの目がある。1つは当事主体の目であり、他の1つは哲学的絶対者の目である。叙述を構成する2つの視点が『精神現象学』の重要な役割を果たしている。この点を、読者は是非頭に刻み込んでほしい。実は、2つの視点というのは、資本論を読み解く上で欠かすことのできない重要な鍵なのである。
 
主格図式の乗り越え=実体主義から関係主義へ
 唯物論と観念論の解説が少し長くなりすぎたので、話題を元に戻そう。話題は、なぜマルクスの唯物論を素朴実在論=『ただ物論』で解釈する俗論が、マルクス主義や批判陣営の中にまかり通っているのだろうか、と言うことであった。主な原因は、マルクスのフォイエルバッハへのテーゼの1つである『存在は、意識を規定する』と言う命題に対する誤解であろう。これは、唯物史観の宣言とされる。唯物史観とは唯物論的歴史観の略である。
 では、その唯物論的歴史観とは何か。歴史の唯物論的見方のことである。マルクスの『経済学批判』の序説で定式化された公式によると、唯物史観とは次のようにまとめることができる。まず、社会は下部構造と上部構造に分けられる。下部構造は、経済構造つまり社会的生産様式を指す。それに対して、上部構造とは政治制度、司法制度、宗教やその他の意識形態からなる構造である。そして、経済構造たる下部構造が社会発展の主要因であり、原動力なのである。下部構造が上部構造を規定する。
 では、下部構造はどのような仕組みをしているのであろうか。下部構造を基本的に規定しているのは、生産力である。生産力は、自己の発展段階に見合う生産関係を形作る。生産力に応じて、原始共産制生産関係、古代奴隷制生産関係、封建制生産関係、資本主義的生産関係を形成してきた。生産力の発展とって、やがて資本主義的生産関係は桎梏となり、その生産関係を打ち破り社会主義社会そして高度の共産主義社会に移行して行くであろうというのが、マルクスの考えなのである。
 つまり、生産力が発展し生産関係を革命的に変革することによって下部構造が変化する。そして、下部構造の革命的変遷は、ときには徐々に、ときには急激に上部構造を変えていく。上部構造の一番上に意識諸形態(究極的には、下部構造に規定されているので、意識諸形態をイデオロギーと、マルクスは呼ぶのである。)があるのであるが、これも下部構造たる経済構造によって、規定されるのである。そこで、有名なテーゼ『意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する』が主張される。こうして、マルクスは存在たる物質に、物事の起源=アルケーと求める、唯物論者とされるのである。レーニンも『唯物論と経験批判論』において、唯物論は意識から独立に存在する物質を認めることであるという意味のことを述べている。
 マルクス自身も自分の立場を唯物論と述べているし、私自身もマルクスが唯物論者であることを疑わない。しかし、マルクスは資本論の『後書き』の中で、現在ヘーゲルは死せる犬として扱われているが、マルクスは公然とヘーゲルの弟子であると述べている。
 これに習って、私はマルクスが現在ソ連邦の消滅以来終わった者として扱われているのに対して、サルトルの言葉『マルクス哲学は現在乗り越え不可能な哲学である。』と同一の見解をもっていることを公言しよう。マルクスこそがデカルト以来の主客図式のアポリアを解いた唯一の人であると、私が考えていることを宣言したい。リーマンショックによる新自由主義の破綻によって、マルクス経済学が再評価されていると言われるが、より強力にマルクスが再評価され、マルクスルネッサンスが起きることは確実である。いつかはかつてのように、時代を支配する思想になるのは間違いない、と言うことを予言しておきたい。
 大事な点は、マルクスが徹底的にヘーゲルを研究した上で、自分の研究方法を確立したことである。『精神現象学』や『論理学』と対峙することなく、マルクスの唯物論を考えることはできない。ヘーゲルの主要な問題意識は、近代哲学が陥った主客図式のアポリアを解決することであった。すなわち、観念論と唯物論の対立を止揚克服することであった。観念論と唯物論の止揚統一という問題意識は、初期マルクスでも明確に言われている。そして、現代哲学はどの立場であるにしても、観念論と唯物論の対立を止揚することを目指している。例えば、ハイデッガーは用意周到に意識や主観という言葉を使わず、『存在と時間』の議論を進めている。分析哲学も実存哲学もその他も克服を目指して自己の哲学を確立しようとしている。
 初期において、観念論と唯物論の止揚統一の問題意識を持ったマルクスが後期に入る転換点の時期に、先の命題『意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する』を言ったことを考慮に入れなければ、正しいマルクスの唯物論解釈はできない。そして、その際に大変に重要な視点は、対象と意識の運動を説いたヘーゲルの『精神現象学』からの視点である。対象と意識は決して独立な実体ではない。マルクスの唯物論を考える際に、決定的に重要なことは、やはりフォイエルバッハへのテーゼの中にある言葉『対象的活動』である。対象は活動によって生産され、活動は対象を予定している。マルクスには、2つの実体を切り離す発想はない。
 さらに、マルクスの唯物論を解釈する上で重要な思考材料は、やはりフォイエルバッハへのテーゼの中にある。それは、次のテーゼである。『人間の本質は、社会的諸関係の総体である。』異なる実体があって、実体同士が関係を結ぶのではない。そうではなくて、諸関係の結節点に実体が存在する。社会的諸関係の束として、人間という実体が捉えられている。
 20世紀の哲学の特徴は、実体主義的発想から関係主義的発想への転換にある。構造主義の始祖たるソシュールの構造主義的言語学を例に挙げることができる。ソシュールは、言葉はものの名前ではないと主張する。ソシュールが退ける考え方は、はじめにものがあり、それに名前が付いたとする考えである。実は、逆で言葉によって世界の文節が行われたと考えるのである。極端に言えば、言葉によりものができると言うことだ。 『はじめに言葉ありき』だ。つまり、もの→言葉ではなく、言葉→ものである。カントの純粋理性批判の序論の言葉『認識が対象に規定されるのではなく、対象が認識に規定される』を真似て言えば、『ものが言葉を規定するのではなく、言葉がものを規定するのである』となるだろう。
 抽象的で理解が難しいと感じている読者のために、具体例で説明しよう。私ごとになるが、私の長男は1才半になっても、意味のある言葉を発しなかったので、大変心配していた。パパという言葉を教えようとして『パパ』というと、『パパパーン』や『パパパ』などと返し、どう考えても言葉を理解しているとは思えなかった。ところがある日、5月の上旬の頃であったと思うが、家の庭で子供と砂遊びをしているとき、長男が突然たって指さしながら『ちょちょ』といったのである。私は、この時期に蝶々なんているわけない、やはりこの子は言葉を理解していないと悲嘆すると、なんとその指先には本当に蝶が飛んでいるではないか。私は、涙が出そうなほど感動した。『この子は言葉を理解している!』
 ところが、長男は鳥をみても、扇風機をみても指さしながら『ちょちょ』というのである。要するに、羽のあるものが『ちょちょ』なのである。このときの言葉の働きを考えてほしい。『ちょちょ』という言葉によって、羽のあるものと羽のないものへと区切られたのである。つまり羽のある集合と羽のない集合に分けられたのだ。ソシュールが世界文節という難しい言葉で言っていることは、言葉は世界を集合に分けているという意味なのである。
 長男の『ちょちょ』に違和感をもたれるかもしれないが、世界中の言語をみると類例はいくらでもある。日本では『オオカミ』という動物が存在している。それは、オオカミという言葉が存在するからだ。だが、言語体系によってオオカミは、犬の仲間に入れられていて『オオカミ』という言葉が存在しないし、その言語を使う人々にとってそれはただの犬にすぎず、オオカミという動物ではないのである。彼らにとっては、オオカミという動物は存在しないのである。英語からも例をとることができる。デビルフィッシュとはタコのことである。我々日本人からしたら、タコが魚の仲間にされていることは、まったく奇異である。日本人からすれば、タコは魚とは別の生き物だからである。だが、結局はそれを別の生き物だと思う根拠は、タコという言葉があるためのものなのである。
 他の例を挙げれば、我々日本人にとって雪は、『ぼたん雪』『粉雪』など数種類しかない。ところが、エスキモーにとって雪は100種類以上あるのである。我々が数種類しかないと思っている雪が、100種類以上あり彼らには明確に違うものなのであり、生活を左右するものなのである。そして、エスキモーには白を表す言葉も100種類以上ある。言葉が、ものを分けているのである。と言うより言葉によってものが生じるのである。『ネコ』という言葉によって、猫という動物=ものがはじめて存在しうるのである。『はじめに言葉ありき』というキリスト教の教えも、まんざら嘘ではなさそうだと先生方も感じ始めたのではないだろうか。
 ソシュールはいう。言葉の意味を確定しているものは、差異でしかないと。どの系列の言語にしても、同義語をたくさん持っている。言葉の意味を定めているものは、他の同義語との違いでしかない。言葉の意味は、それ自身では確定できず他の同義語との関係のみでしか確定できない。差異という関係こそが、言葉の意味を定める。エスキモーは100以上の白の同義語を持っているが、それらの語の意味は100以上の語の体系によって、構造によって語の意味が規定されるのである。ポスト構造主義が、差異を重要視する源泉は、ソシュール構造言語学にある。
 ソシュールの考え方も、独立自尊の実体があり、それが関係を結んだり名前が付いたりするのではなく、諸関係の結節点に実体と呼ばれるものがあるということなのだ。はじめに関係ありきなのである。ソシュールだけでなく、分析哲学も物事を関数関係で見るという点で、関係主義的である。我々を『世界内存在』として捕らえるハイデッガーの立場も関係主義的発想といえよう。
 1/4世紀も前にその関係主義的発想をしていた人こそが、マルクスなのである。私は、マルクスに近代哲学のアポリアが解決するキーがあるとする、廣末渉氏の見解に全面的に賛同する。マルクスにおいては、意識と対象の二項対立は、実践というカテゴリーによって乗り越えられている。対象は活動を予定し、活動は対象を予定している。対象は、我々の活動=実践の生産物であると同時に、対象が我々を形作る。マルクスは、経済学・哲学草稿の中で、『五感は、世界史の生産物である』と述べている。対象ばかりか、我々の五感でさえ、活動によって生産されたものなのである。対象も主体あるいは主観でさえ、活動の生産物なのである。活動とは最初から対象を予定する対象的活動なのである。対象も活動によって生産されるのであるから、活動を前提し予定している。すなたち、活動的対象なのである。対象的活動と活動的対象の関係と運動にこそ、主客図式=2元論を超克するキー概念なのである。実践的唯物論こそが2元論のアポリアを解決する。
 少し長くなったが、マルクスが唯物論者であったとして単純な素朴実在論の立場ではあり得ない、ということはある程度納得されたのではないだろうか。よく理解できないと感じる方も、もう少し忍耐して読み進めて頂ければと願う。著書や論文にしても、全体像がつかめない限り理解することは困難であるからである。
 
物神性の謎
 さて、商品論を研究するための視点や素材は十分に揃ったので、資本論第1章商品論第3節、第4節に戻りたい。マルクスは、第1節と第2節で使用価値と交換価値を分析し、さらに交換価値の本質である価値を抽出した。第3節では、再び本質である価値からその現象形態に戻る。第3節の課題は、単純なる価値形態からいかにして、煌びやかな貨幣形態が発生するのか、発生史的に解明することにある。発生史的と言うことで、有名な論争が生じている。第3節の分析は、論理的な演繹なのか、それとも歴史的解明なのか、と言う論争である。私は、発生史的過程を論理的分析と考えるが、ヘーゲルの哲学史そのものが哲学であるように、歴史的側面も持っていると思う。しかし、この問題に深入りすれば、この問題だけで、大著ができてしまうほどなので、この問題は脇に置いておこう。
 マルクスの叙述は、単純なる価値形態、拡大せる価値形態、一般的価値形態、貨幣形態の順で進められる。細胞が生物全体の設計図であるDNAを持っているように、単純なる価値形態のなかには、全体の縮図が入っている。単純なる価値形態は、次のような等式からなる。亜麻布20エレ=上着1着。この単純なる価値形態に商品の謎が隠されている。亜麻布20エレを相対的価値形態、上着1着の方を等価形態と呼ぶ。亜麻布の方は、上着によって価値を表現され、上着は身をもって亜麻布の価値を表現するからである。亜麻布は自己の価値を、自分の体では表現できず、表現するためには上着という体を必要とする。亜麻布は自己の価値を上着の使用価値で表現する。亜麻布は自分の価値であるのに、自分の使用価値では表現できない。上着は使用価値のままで亜麻布の価値を表現している。この非対称性の中に、マルクスは経済恐慌の理論的可能性を示唆する。
 単純なる価値形態は、拡大せる価値形態に拡大する。上着1着=亜麻布20エレ、上着1着、10ポンドとうとう。そして、それを逆にすると、一般的価値形態となる。亜麻布20エレ、茶10ポンド、・・・・=上着1着。そして、上着が金になると煌びやかな貨幣形態 亜麻布20エレ、上着1着、茶10ポンド、・・・・=金1オンスが完成する。この段階になって、恐慌の理論的可能性はより大きくなる。相対的価値形態にある側の労働は、社会的労働である保証がない。等価形態にある金生産労働は、文句なしに社会的労働であるのとは対照的に。商品が売れて、はじめて自分の支出した労働が社会にとって必要な労働であることが確証されるからである。商品が売れることによって、自己の労働が社会的総労働に組み込まれていたことが、初めて確証されるのである。商品が売れないときには、社会的には不要な労働であったということが証明される。
 そして、本論文でももっとも大切な第4節商品の物神性の謎に遭遇する。マルクスは、第4節冒頭で、商品は摩訶不思議で神秘に満ちた物であり、机が逆立ちして踊り出すより、謎に満ちた存在であるという。凡庸な読者であるなら、ここで驚くはずである。いったい何が謎なのかと。謎であると言っていることの方が謎ではないかとさえ。だが、商品の謎の理解が資本論全体を理解できるかどうかの鍵なのである。
 いったい何が謎なのか、解説してみよう。商品価値とは何であろうか。誰でも個々の商品に価値があることを疑わない。商品の価値は、ありありと現れている。だが、ありありと現象しているとしたら、いったい何に対してであろうか。商品価値は、ありありとした対象性を持っている。対象である以上、五感の何かの対象であるはずだ。視覚であろうか、聴覚であろうか、触覚であろうか。あるいは、臭覚か味覚か。しかし、どの経済学者も価値の化学的分析に成功した者はいない。顕微鏡で商品を観察したり、秤で量ったりしても価値を見いだすことはできない。ありありとした対象性を持つなら、五感の対象であるはずなのに、視覚の対象でも、聴覚の対象でも、触覚の対象でも、味覚の対象でも、臭覚の対象でもない。だとすれば、いったい何の対象なのだろうか。ありありとした対象性を持っているのに、五感のどの対象であるかがわからない。だとすれば、第6感の対象なのだろうか。唯物論者のマルクスが、第6感のようなものを信じているわけはない。価値はいったい何の対象なのか。
 ここに価値の謎がある。自然的にして超自然的な存在、これが価値なのである。感覚的にして超感覚的な存在これが商品なのである。この謎にこそ、資本主義が資本主義として成り立つ、すべての秘密が隠されている。マルクスは、この謎に満ちた性質を商品の物神的性質と名付ける。古代の人がものに神が宿っていると考えたことを物神性=フェティシズムという。マルクスは、もちろんそこから借用しているのであるが、独特の意味内容をここに込めている。哲学や社会科学を理解する上で決定的に大事な点は、哲学者や社会科学者が使っている用語=概念=カテゴリーを理解することである。哲学者は、日常用語を使っている場合にも、そこに独特の意味を込めている。
 よく、難解な哲学書や社会科学書を読むときに、片手に哲学事典や社会科学事典を手において読解に励む者がいるが、辞書に書いてある解説を参考にすれば哲学書や社会科学書が理解できると思うのは幻想でしかない。確かに、辞書は参考にはなるが、参考以上のものではない。概念や範疇を理解したいなら、哲学書や社会科学書を徹底的に読むしかない。なぜなら、哲学者や社会科学者が用語に込めた意味は、決して辞書式に語れるものではないからである。定義さえわかれば、カントの『純粋理性批判』でさえ理解できると考える人は、真に哲学書を読んだことのない人である。哲学者や社会科学者の用語は、決して定義では語れないのである。たとえば、価値とは社会的労働時間の対象化である、と説明したところで、では社会的労働とは何か、対象化とは何か、の問いが残り続ける。ハイデッガーが捧げている『存在と時間』は結局は、存在とは何なのか、時間とは何なのか、この問いに答えるために岩波文庫3冊分も用いて、答えようと努力しているのである。しかも、『存在と時間』は未完の大著である。元々の構想では、3部構成の第1部をなすにすぎなかったのである。つまり、ハイデッガーが存在の意味や時間の意味に答えるには、三千ページもの著書を必要としたことになる。だから、用語の意味を理解するには、著書全体を読むしかない。
理由は、哲学や社会科学で用いている方法は、本人が自覚しているかは別にして、必ず弁証法的方法を使っているからである。定義による理解が可能なのは、形式的論理学を方法として使っている場合だけなのである。弁証法は、『部分は全体であり、全体は部分である』という立場をとるからだ。弁証法は、『本質vs現象』『内容vs形式』『直接性vs媒介性』などは磁極の両極のように結びつけて考える立場なのである。対立物の統一が、弁証法のもっとも基本的な考え方だ。
哲学書や社会科学書が、弁証法的方法によって記述されている以上、用語の意味を理解するには、著書全体を読む以外方法はないのである。マルクスの物神性という言葉を理解するときも同様である。マルクスがこの言葉に込めた通りに理解しなければならない。とはいえ、物に神が宿るという意味を持つ物神性という用語を当てはめた事には、重要な意味があることも事実である。確かに、商品価値には妖怪のような不思議な性格を持っている。ありありとして対象性があるにもかかわらず、五感の何の対象であるかがわからない。というより、どの五感の対象でもない。対象である以上、何かに対して存在していなければならないのに、何に対しているのかが不明なのである。そもそもそれは、自然的実体なのか、それとも社会的実体なのか。自然的実体だとすれば、化学者や物理学者が一人として発見したことがないことが謎として残る。社会的実体であるとしても、農奴や奴隷などがなぜに価値を生産しないのか。
第4節にして、先にヘーゲルの精神現象学を問題にした際に述べた2つの視点が存在している。それは、生産当事主体と物神性の秘密を解き明かしている著者マルクスである。言い方を変えれば、資本主義的常識にとらわれている読者と真理に目覚めている著者の視点である。物の分析であるとしている大塚氏にとっては、1つの視点さえ存在していないだろう。自然科学的分析なら対象の分析に終始していればよいのであって、主観がそれをどう認識しているかは、問題にならない。物理学であれば、終始客観自体を分析すれば事足りる。認識によって、物理的運動法則が影響を受けないからである。しかし、経済学の対象が人であり、人がどのように感じ・考え・認識しているかによって、人の行動は変わってくる以上、客観自体=対象自体とともに、人にはそれがどう映っているか、意識の内にどのように現象しているかを、すなわち主観を問題にしなければならない。
資本論とは対象自体の分析にすぎないと思っていた人にとっては、私がこれから提案することは、『コペルニクス的転回』として映るだろう。そして、俗流マルクス主義者にとっては、私は『観念論』に降参したのだと思うに違いない。価値とは何か。それは、生産当事主体の意識へのある何者かの現れなのである。つまり、価値とはある対象の現象なのである。今までの俗流理解によれば、価値とは対象自体すなわち商品自体に備わる属性であった。しかし、正しい見方では価値とは対象側にあるのではなく、主観の側にすなわち意識の側にあるのである。
私は、この転回をかつてこのように表現した。マルクスの価値分析は、商品対象の現象学的還元であると。この『現象学的還元』とはエドムント・フッサールの用語であり、素朴に意識の外に物自体が存在しているという確信を一旦停止して、あるいは括弧に入れて意識そのものに戻る事を指している。フッサールは、現象学的還元で得られる領野を純粋意識と呼んだ。つまり、物自体が存在しているという推論をせずに、意識に現れている通りに、あるがままに現象を見ようとする立場である。事象自体に帰ろうというのがフッサールの立場なのである。現象学的還元とは意識そのものに戻ることを意味している。この推論停止をエポケーという。
つまり、商品対象自体の分析であるという思いこみを一端エポケーし、括弧に入れがあるがままにみてみようと言うことなのである。商品に価値があると思っているのは、言うまでもなく商品を生産している当事主体であり、読者である。もちろん、私がここで言いたいことは、『価値とは思いこみであり、錯覚なのである』ということではない。価値が主観に現象しているとしても、それは思いこみでも錯覚でもない。この現象には、避けることのできない必然性がある。先に、2つの視点の1つとして物神性の秘密に目覚めている人=マルクスの視点を述べたが、マルクスの視点から見ても同じように現象する。それは、天体が回っているのではなく、地球が回っているという天文学的真理に目覚めても、相変わらず天体が回っているように見えるのと同一なのである。さきの、ヘーゲルのカント評を思い出して頂きたい。それは、カントは主観・客観を2重化したという指摘である。これ比喩的に使わせて頂ければ、主観の現象でありながら客観的なのである。つまり、主観内の現象であるのに必然的にして普遍的で不可避的なのである。
この提案に対して、納得できない思いの読者が多いであろう。しかし、次のような場合を想定していただきたい。もし、農奴をタイムマシンで現在に連れてきて、上着を見せたなら、彼はそこに使用価値はみるであろうが、決して価値をみることはない。有用性は見るが交換価値は見ない。つまり、寒さを防いだり、場にふさわしい姿をしたりするために必要なものとはみるが、交換のための価値はそこに見ないであろう。同じ対象でありながら、異なる主観には異なる現れ=意味として現象している。価値が価値として現れるためには、ある主観の構造を前提している。我々資本主義社会の中に育った者にはありながら、封建主義的社会や古代奴隷制社会あるいは原始共産制世界で育った者にはない、ある種の構造があるのである。カントが、認識に入る前に認識能力そのものを問題にしたように、資本主義によって必然的に規定されている主観の構造を、主観の機能を問題にしなければならないのである。だから、私は先のコペルニクス的転回を『カント的転回』とも呼んだのである。商品論における『コペルニクス的転回』は、フッサールの『現象学的還元』であり、『カント的転回』でもあるのである。
特定の主観に対してしか価値は現象しない。マルクスが問題にしているのは、商品対象自体であるとともに、この特定の構造を持った主観なのである。対象と同時に主観の分析、すなわち対象および主観の相即的批判こそが資本論の神髄なのである。大塚氏が言うように対象のみの分析に終始しているのではなく、客観と主観を同時にまな板の上に置いて料理しているのである。私が、『はじめに』でいった意味が見えてきたのではないだろうか。
マルクスにおいては、なぜ抽象的人間労働の対象化が価値として人間の意識に現れるのか、が問題にされている。結論を先回りしていえば、価値とは本来的には社会的関係の屈折的映現に他ならない。商品の価値関係の本来的姿は労働の社会的関係である。労働の社会的関係が直接現れず、商品価値として現れるのが資本主義社会なのである。人と人の関係が物の関係として現れる事態をマルクスは物神性または物象化と名付けたのである。社会的諸関係が屈折して、商品関係として現れることが物神化ないしは物象化なのである。したがって、物象化は決して前期にマルクスが使っていた疎外概念とは同一ではない。
生産関係が屈折的に商品関係として映現する資本主義的生産関係に対して、封建制的生産関係と古代奴隷制的生産関係、そして原始共産制的生産関係は、生産関係が直接現れている。つまり、物を介して社会関係が結ばれるのではない。そして、前2者においては、労働搾取は、火を見るより明らかなのである。だからこそ、社会を維持するために経済外的装置を必要としたのである。そして、資本主義的生産関係が商品を媒介しているため搾取が隠蔽されるのである。
労働時間が、価値として対象化することに、労働搾取が隠蔽される秘密が隠されている。もし、価値でなく商品に生産するのに必要な労働時間が書いてあるならば、搾取の事実は白日の下に曝されてしまう。賃金が、労働チップ(価値ではなく、投下された労働時間が表示された貨幣)で出払われるなら、自分が実際に資本家のために働いた労働時間とその対価である賃金が等価でないことが明らかになってしまうからである。例えば、週48時間も働いているのに、賃金として支払われた労働チップには20時間しかないとすれば、28時間は丸ごと搾取である。労働時間が価値として現象していることが、搾取が見えない原因なのである。
商品交換の原則は、等価交換である。この原則が貫かれている資本主義社会において労働搾取が行われていることを、証明したのがマルクスの偉大な功績の1つである。この等価交換下の搾取を証明するには労働力の価値というもう一つの重要な範疇が必要であった。等価交換で支払われているのは、労働の価値ではなく労働力の価値だったのである。この2つのカテゴリーを、区別することが搾取の事実を証明するために必要だったのである。アダム・スミスやリカードは、2つの概念を区別できなかったために、労働価値説を徹底できなかったのである。
労働力の価値とは、労働力の再生産費である。簡単に言ってしまえば、労働者の生活費である。奴隷をみればわかるとおり、人間は自分の再生産費以上の価値を創造できる。労働者が生産した価値から労働力の価値を差し引いたものを、マルクスは剰余価値と名付ける。この剰余価値こそが、資本家によって丸ごと搾取されているものなのである。
資本主義的生産関係は、生産関係が物を媒介にして取り結ばれる生産関係なのである。市場に持って行って、商品が売れたときに始めて自己の労働が社会的に必要な労働であったことが後追い的にわかるシステムなのである。コンピュータを使って、いくら市場調査をしたところで、自社の製品が売れるかどうかはわからないのである。コンピュータを使った予想はしばしば裏切られる。あの世界のトヨタでさえ、予想を誤って在庫をたくさん抱えてしまったのである。商品が売れないとき、その労働は社会にとって不要な労働であり、支出された労働は社会的総労働を構成していなかったことになるのである。それは、資本主義内のすべての商品が等価形態ではなく、相対的価値形態の方にあるためなのである。すべての商品は貨幣(現実には紙幣)によってしか自己の価値を表現できない、ここに恐慌の理論的可能性があることは先にすでに述べた。
2つの視点の内、生産当事主体の視点はすでに解説した。ではもう一つの視点は物神性の秘密に目覚めている者=マルクスの視点である。資本論第1章第4節の冒頭にたどり着いたほとんどの読者は、商品は謎に満ちて神秘的なものであるという言明に遭遇して、いったい何が謎なのか面食らったに違いない。なぜなら、すべての人にとって商品は自明で別に不思議でも何でもない存在だからである。実際に、マルクス以前のどの経済学者も、商品は謎に満ちたものであることに気が付かなかった。自明に見える物の中に摩訶不思議さを発見する能力は、まさに天才と言える。読者は、商品生産当時主体と同じく、物神性に支配されているので、そこに謎を感じるためには、もう一つの視点からの指導が必要である。マルクスの弁証法的叙述によって、読者は一歩一歩高い立場へと導かれる。対象レベルにとどまっていた意識が、マルクスに導かれてメタレベルに引き上げられる。マルクス以前のすべての経済学者が対象レベルにとどまっていたに対して、マルクスは一歩高いところから経済学的事実を眺め、主観=主体のレベルでも考察した。経済学的運動法則を解明するためには、対象レベルにとどまっていたのではダメで、対象を認識する主観をも対象にしなければならないことを洞察したのである。つまり、マルクスの分析は対象レベルとメタレベルの相即的批判なのである。『ただ物論』的分析をしていたのは、マルクス以前の経済学者たちで、マルクスが始めて経済学的分析における主観の分析の大切さを発見したのである。
確かに、ウェーバーも動機を分析対象にすることによって、社会科学における主観分析の大切さを理解していた。しかし、マルクスの分析が意識と対象の運動であり、しかもそこには、第二の視点が挿入されている。ウェーバーにしても大塚久雄氏にしても、マルクスの重層的な記述=分析を理解した上で、マルクスを批判していたであろうか。大いに疑問を感じるのではないだろうか。彼らの不幸は、精神現象学が資本論においてどんなに重要な役割を果たしているか、理解していなかった点にある。
少し、結論を先回りしたので我々の論をもう少し進めよう。弁証法とは何か。私は、その問に対してこう答えたいと思う。それは、意識と対象の運動であり、しかもその際の意識は2重化されている。もし、意識が当事主体のものだけなら、意識が向上していくエンジン=機動力がない。マルクス以前の経済学者が、対象自体の分析に終始していたことを考えればわかる。また、素朴な意識は決して商品の中に謎を見ない。いつまでも対象レベルにとどまり、メタレベルに飛躍する機会がない。
読者に、当事主体と哲学的絶対者の視点のわかりやすいアナロジーを2つ提供してみたいと思う。1つは、夢である。夢の構造をよく考えて頂きたい。夢の中にはほとんどの場合自分も登場人物として現れる。そして、たいていの場合ここでの登場人物も舞台も実は夢見る自分が用意し創造したことを知らない。自分が考えていることも、これからしようとしていることも、他者も物質もすべて自分が作ったものであることを知らない。ここでの自分の意識は、2重の意識である。1つは登場人物としての意識であり、もう一つは夢の創造者としての意識である。登場人物としての自分や他の人々が、結局はもう一つの自我=意識によって支配され、駒として動かされていることを知らない。
もう一つは、キリスト教の三位一体である。もう詳しい説明は必要ないであろう。それは、今述べたばかりの夢の構造とあまりにも似ている、ということである。我々も世界も精霊もすべて神の創造物である。我々は、自分の意志で自由に行動していると思っている。だが、結局は神の意志のもとで踊らされているだけである。ヘーゲルはこれを神の狡知と呼んでいる。夢の世界と全く同一である。夢の登場人物は、自分の自由意志で自由に行動していると思っているが、結局は神たる自分の意志で踊らされているだけである。
アナロジーはここまで。夢においては、真理を認識するために神たる自分は、決して導いてくれない。しかし、弁証法的叙述においてより高いレベルに、秘密に目覚めた者が導いてくれるのである。
おそらく哲学的絶対者による視点変更がないならば、我々は形式論理の平面にとどまっているだろう。平面から平面の跳躍を導いているのは、哲学的絶対者である。1つの平面の中で支配している論理は、形式論理である。形式論理は、演繹の世界である。弁証法的論理は平面から他の平面へ跳躍である。弁証法的論理は、重層的・多層的論理である。読者が平面から平面への切り替えを行うためには、叙述者の指導が不可避である。
 
結論
一度先回りしてしまったが、もう一度結論を述べてみたいと思う。マルクスの分析は弁証法的分析である。すなわち、客観と主観の契機をもち、しかも主観は当事主体の主観と哲学的絶対者の主観に2重化されている。したがって、大塚氏が言われる主観を考察対象に入れることによって、ウェーバーはマルクスを超えたという見解は誤りである。マルクスの分析は、初めから客観と主体を対象にしており、しかも多層的・重層的にして弁証法的な分析であり、ウェーバーの分析より遙かに包括的にして深い分析をしていたのである。
 
後書き
この論文を私は、ほとんど改めていろいろな著書を参照しないで、ほぼ記憶だけでたった2日で書き上げた。本来、論文と言えば精密な精査によって確証してから、書くのが本筋である。その意味では、本稿は論文の名に値しない。例えば、大塚久雄氏の『社会科学の方法』は一番最近でも読んだのは15年以上前である。資本論も20年以上読んでいない。したがって、私の記憶違いも相当あったものであることを覚悟している。なぜ、私が記憶だけで本稿を書いたかと言う問に対して、次のように答えたい。即興で、自分の考えを述べる機会があれば、どれだけ述べることができるか、試してみたいとかつてから思っていたからである。つまり、本稿は何の準備もしないで、私が即興で語った講義である。果たして、これがおもしろいものになったかは、すべて読者の判断に委ねるしかない。学生時代に哲学や社会科学の本が遠くに感じられた方が、少しでも哲学や社会科学に興味を覚え、哲学や社会科学の一端を垣間見たという思いを感じてくだされば、私としては存外の喜びである。感想をお寄せ頂ければ、幸いに思う。

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